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我が子の学びを学校任せにしない

今回の記事は、親として公教育にどこまで期待していいのかについて、私が考えることを書きたいと思います。

誰でも学べる公教育の有り難さ

よく考えてみると、公教育というシステムは本当にすごいものだと思います。
貧しい家庭に生まれても、障害をもっていたとしても、どんなハンデがあっても、等しく学ぶ機会を保障されているんです。
それってすごいことですよね。

明治初期、学制が公布された頃は、全く違いました。
学校に行けない子がたくさんいたんです。

家が貧しくて手伝いをしなければいけない子もいたし、人手が足りず、子育てを親の代わりにしなくてはいけない子もいました。
こんな状況で、就学率は20〜30%と、とても低いものでした。

でもそこから紆余曲折を経て、義務教育費の無償化が達成されました。
すると就学率もほぼ100%近くになりました。
明治33年のことです。

誰でも学べるように。
貧しくても障害があっても、どんなハンデがあっても皆が等しく学べるように。
こうなるまでには、どれだけの人たちの努力や苦労があったのでしょうか。

様々な人たちの奮闘があったからこそ、今は誰でも公教育を受けられるようになっている。
そのことを当たり前として考えるのではなく、感謝しなくちゃいけないなぁと思いました。

変わる時代、学校にどこまで期待していいのか

でも一方で、子供たちや保護者のニーズはどんどん多様化してきています。
時代もどんどん変わっていきます。

その中で、変わらない学校教育。
私が子供だった頃と何も違わない風景。
(iPadの普及は大きな変化でしたが。)
少なくとも、変化するスピードがかなり緩やかなのは明らかでしょう。

そんな中での不登校の激増。
学校教育に馴染めない子や居心地の悪い子が出るのは当然で、そういう子たちの受け皿になっているのがフリースクールやオルタナティブスクールです。

私たちは親として、公教育にどこまで期待して良いのでしょうか?

子供の学びを学校任せにしない

この問題はとても難しいと思いますが、大事なのは「少なくとも学校は、何でもかんでも家庭の困りごとを解決してくれる便利屋ではない」ということではないでしょうか。
便利屋扱いされてしまっていることも無きにしも非ずの現状ですが、多様化する各家庭のニーズ全てに応えるのは、現実的に不可能ですよね。

だから、公教育としての学校の役割をもう一度見つめ直す必要があるのかな、と思います。
公教育の目的って何だろう?と。

その上で、子供に対しての責任は、やはり一番は親が持つべきだと思います。
子供の学力も健全な成長も、まずは家庭に責任があり、親がなんとかしなければいけないものなんだ、と。

もちろん不登校など、支援が必要なものについては公的に支援すべきでしょうが、「我が子の勉強も心身の成長も学校に丸投げ」というスタンスは良くないと思います。

子供に対しての責任は、親が持つべきだ。
そういう認識で親が子育てすることで、家庭教育と学校教育の切り分けができていくのではないでしょうか。

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