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短編小説『ガラスの航海』

The Glass Voyage/ A Short Story

たとえそれでも、君はやっぱり思うのかな?この人生における望みは果たしたと?レイモンド・カーヴァー


1、

 

その冬、ジェイクは、リトル・イタリーの小さなカフェ・ショップを8万ドルの現金で買い取った。

店の名前は、フラ・アンジェリコ。ルネサンスの画家の名前だった。

地元の若者たちが、エスプレッソやカプチーノ、パニーニ、ジェラートを楽しんでいる。

 

ある朝、ジェイクは、楽屋にいるあたしに会いにきて、あの仕事から足を洗ったから、俺と結婚してほしいと頼んできた。

これからは、カフェのオーナーとしてまともに生き、幸せな家庭を持ちたいんだ、と彼は言った。

ファミリーから抜けることが、どれだけ大変なことなのか、素人のあたしにも想像は出来た。

だから……ねぇ、ジェイク、あなたを愛してはいるけれども、そんなのは夢物語、とても信じられない、現実的ではないわ、と断わった。

でも、ジェイクは諦めなかった。

メイジー、俺は、フェデリコときちんと話をした。もちろん、猛反対されたよ。俺は頼りにされているからな。でも、まとまった金を払ったんだ。それで、クリアになったのさ。

あたしは、ジェイクが嘘つきではないのを知っている。秘密の多い男ではあるけれど。

結婚だなんて、すぐには決められないわ、とあたしは答えた。

 

それから、2週間後、ジェイクから電話があった。

きみだって、もうそんなに若くない。ずっとポールダンサーを続けるわけにいかないだろう、俺には充分な蓄えがある、この際、一緒に、新しい人生をやりなおそうじゃないか、籍は入れなくてもいいから、とにかく、うちに引っ越してこいよ。

あたしは言った。

あたしが仕事を辞めたら、誰が母さんの生活費を仕送りするのよ?

そのことは、俺も考えた。とりあえず、きみの母親には2万ドルを送るつもりだ。毎年、そうする。足りないなら、言ってくれ。それに、きみがそうしたいなら、母親をルイジアナから呼べばいい。隣りのアパートメントには、空き部屋がたくさんあるのだから。

ジェイクは本気だ、とあたしは思った。先のことまで、きちんと考えてくれている。

あたしは嬉しくて、泣いてしまった。

自分はひとりぼっちになった、きみだけが世界なのだ、とジェイクは言った。

40年来の仲間たちとは、すべて付き合いを絶ったのだ。暗がりの社会の、危ない人間たちとは。

そんなことが、本当に可能なのだろうか?

あたしの気持ちは、決して、青空のように晴れていなかった。

 

それでも、あたしはジェイクと暮らすことを決め、アルフレッドの事務所のドアをノックした。

メイジー、お前は頭がいかれてしまったのか?ジェイクは化け物だぞ。百人は殺っているって噂だ。まともじゃない。俺だって、ふたり殺ってるが、罪の意識はある。だが、奴は純粋に金のためだけに殺ってきたんだ。

ジェイクは変わろうとしているのよ、それに、あなたの意見なんか聞いてない、ここを辞めたいだけ、とあたしは言った。

本気なんだな?

と、アルフレッドが聞いた。

辞めさせてくれないなら、ジェイクに相談するしかないわ、とあたしは言った。

アルフレッドは、ため息をついた。

メイジー、契約通り、キャッシュで一万ドルを払え、そうすれば、お前は自由だ。

そして、あたしは、貯金をはたいた。小さなプライドから、ジェイクには1ドルも払わせたくなかったのだ。

 

 

2、

 

その冬、あたしは、いろいろな手間のかかる料理をジェイクのために作って、一緒に食べた。

ステーキやサーモンを焼き、パスタやジャガイモをゆでたり、ハチミツやハーブを使って、インゲン豆やハムを煮たりした。

ふたりの体重は、みるみるうちに増えて、新しい洋服を買わなければならなかった。

寝たい時に寝て、起きたい時に起き、気の向くまま、避妊具を付けずにセックスした。

相変わらず、ジェイクは、気が遠くなるくらいに上手だった。

あたしたちは自由だった。

カフェの営業は、3人の若い従業員に任せており、夕方になると、ジェイクが様子を見にいき、エスプレッソを一杯飲めば、それで良かった。

順調だった。

 

ある日、ジェイクは、あたしをハリーウィンストンに連れていき、8000ドルもするプラチナの婚約指輪を買ってくれた。

どれも似たような指輪に2時間も悩んでしまったが、彼は苛立ちや、退屈な素振りを少しも見せなかった。

世界一大切にされている女かもしれない、あたしはそう感じた。

酒が飲めないジェイクは、高価なシャンパンを少しだけ口にしたとき、眠そうな瞳で、こんなことを言った。

メイジー、俺がどのくらい金を貯めこんだのか想像できるか?当ててみろよ。

分かるはずないわ、とあたしは首を振った。

驚くなよ、430万ドルだ、まともな教育を受けていない、この俺がだぞ。もし俺に何かあったら、すべて、きみのものになるようにしたい。だから、早く籍を入れよう。

お金なんかいらないわよ、それより、ずっとそばにいて、とあたしは笑った。

本気だった。

少年の表情だった。

 

やがて、ジェイクは、あたしの母親ダイアンをルイジアナから遊びに来させようと提案した。

ダイアンは72歳で、ヴィクトリア調の古いアパートメントに30年以上も独り暮らししていた。

あたしには父親がいない。

誰が父親なのか、知らないのだ。

ダイアンが知っているのかどうかさえ、あやしかった。

今さら、どうでも良いことだけれども。

あたしの人生が順調だったとはとても思えないが、それと比べても、ダイアンの人生は楽なものではなかった。

はっきりと言えるのは、ダイアンには、男運がなかったということだ。

大勢の男たちに利用され、騙されてきた。

それは、彼女のそういう性格が原因になっていたのだから、仕方がないことだと思う。

人生をやり直しても、同じようなことになってしまうだろう。

滞在した一週間、ジェイクはダイアンに対して、心から優しく、紳士的に接してくれた。

そして、あたしが如何に愛情の深い、素晴らしい女性であるかを、あらゆるタイミングで、何度も強調してくれた。

ダイアンは、ジェイクのことがすっかり気に入ってしまい、すぐに結婚して、子どもをつくるべきだと主張した。

そして、それが、今のあたしにできる、唯一の親孝行だとも。

 

 

3、

 

真夜中、古い灰色のメルセデスが、あたしたちの家の前に停車した。

ジェイクは、ケーブルテレビでレイ・ハリーハウゼン特集を観ていた。

子どものころ、彼が夢中になった、懐かしいモンスター映画だった。

あたしは、ソファに寝ころがって、たいして面白くもないロマンス小説を読みながら、ねむけと戦っていた。

2度、3度、玄関のチャイムが続けてなった。

こんなに遅い時間なのに、遠慮のない訪問者だった。

あたしがドアを開けると、背の高い、黄色いスーツを着た、初老の男が無表情で立っていた。

2メートル近くはあった。

ブルネレスキ。

フェデリコの弟で、普段はほとん喋らない人間だそうだった。

嫌な予感がした。

ジェイクは立ちあがり、ブルネレスキの広い肩に腕を回して、ファミリー流の挨拶をした。

それから、テレビを消して、あたしに寝室に行っているように視線で合図した。

 

あたしは寝室に行き、ベッドに寝ころがった。

ふたりの声は大きかったので、何もかも聞こえてきた。

ブルネレスキが、こう言った。

ジェイク、我々はこの手の約束を守る主義だが、非常事態なんだ。どうしても、あんたの手が借りたい。

ブルネレスキさん、そんな話は聞けませんよ。俺は引退したんです。そのために、大金だって払ってある。

フェデリコが撃たれたんだ、とブルネレスキは言った。

集中治療室にいて、意識が戻るかどうか分からない。

つまり、今は、ブルネレスキがファミリーを仕切っているということだ。

我々は、撃った奴も、撃たせた奴も知っている。もちろん、殺ろうと思えば殺れるだろう。しかし、奴らを生け捕りにしたいのだ。何故だか、分かるな。

とブルネレスキは続けた。

神に誓おう、これが本当に最後だ。25万ドル払う。殺るんじゃない。捕まえるだけだ。

あたしのジェイクは、ただ黙っていた。

ジェイク、あんたもフェデリコにはずいぶんと世話になっただろう。おかげで、この家だって買えたし、女には好きなものを与えてやれる、とブルネレスキは言った。

そこで、ふたりの声は聞こえなくなった。

しばらくすると、車のエンジンの音が通りに響いて、ブルネレスキが帰ったことが分かった。

 

 

4、

 

あたしがリビングに戻ると、ジェイクはソファに座って、モンスター映画の続きを観ていた。

ひとつ目の巨人サイクロップスが、船乗りシンドバッドの仲間たちを捕まえて、串焼きにしようとしていた。

この家だけではなく、ソファやテレビ、マイクロウェーブ、あたしが着てるラルフローレンのパジャマだって、ジェイクが人殺しをして買ったものなのだ、そんなことを思った。

あたしは、キッチンでホットチョコレートを作り、ジェイクにマグカップを渡した。

彼の好きなマシュマロを入れ忘れた。

ぜんぶ聞こえたわ、あたしは言った。

仕方ないわよ、だけど、これが本当に最後かしら?

あたしは腕を組んだ。

どうしたって、難しい顔になってしまう。

ジェイクは、黙ってホットチョコレートを飲んだ。

熱くても、全然平気なのだ。

ねぇ、ジェイク、何とか言ってよ、とあたしは言った。

顔色が悪かった。

最後なはずがない、とジェイクは答えた。

これから捕まえる連中は、ロシアンズだ。間違いなく、全面戦争になる。ブルネレスキも、自分たちが不利なのを分かっているが、こうなったら、やるしかないだろう。そんな時に、俺だけが、はい、サヨナラってわけにはいかないんだよ。

逃げましょうよ、とあたしは言った。

それはできない、とジェイクは言った。

メイジー、やっぱり、きみの言う通りだったよ。こんな生活は夢物語だったのさ。俺は、どっぷり染まってしまっている。今さら、他の人生なんて無理だったんだ。

彼は、マグカップをカーペットの上に置くと、軽い肩のストレッチを始めた。

 

あなたは約束したのよ、とあたしは言った。

責めるつもりはなかった。

そうだ、俺はきみに約束した、とジェイクは言った。

その声は、さっきまでの彼と別人のようだった。

壁の一点を見つめながら、彼は肩のストレッチを続け、ため息を何度もついた。

普段から、ため息と舌打ちが何よりも嫌いだと言っているのに。

それから、彼はストレッチを止め、カーペットの上に仰向けに寝転がると、目を閉じて動かなくなってしまった。

 

映画は終わり、美容器具のインフォマーシャルが流れていた。

彼が何を考え、何を考えていないのか、あたしには分からなかった。

どうすればいいのよ、とあたしは言った。

どうすればいいのよ、だって?

と彼が言った。

目を閉じて、じっと動かないまま。

けれど、やがて、ジェイクは立ちあがり、あたしの背後にまわって、あたしを抱きしめた。

泣いているのかしら、と思った。

うまく行かないわね、あたしって母親にそっくりで、昔から男運がないのよ、女の幸せは好きになった男次第よ、なんて、そんなことを思ってるから、いつまでも幸せになれないのね、きっとそうなんだわ、とあたしは言った。

正真正銘の人殺しだ、と彼は言った。

それに、世の中、悪い奴は最後に滅びるようになっているんだぞ。

あたしたちは、ソファに並んで座った。

あたしたちは、互いに煙草をくわえて、火を付けた。

ジェイク、あなたは与えられた仕事をしただけよ、とあたしは言った。

それだけじゃない、と彼は言った。

説明しても、きみには理解できないだろう。

それは、俺が自分の仕事を楽しんでいたということだ。

楽しんでいたの?

とあたしは聞いた。

煙を吐き、彼は頷いた。

あり得なかった。

彼は心やさしい人間なのだから。

煙を吐き、あたしは言った。

あたしだって、店ですっ裸で踊って、知らない男たちに見られているのを楽しんでいたわ。

ジェイクが笑った。

あたしも笑った。

あぁ、メイジー、そんなこととはわけが違うよ、と言った。

違わない。仕事は仕事だわ。真剣にやっているかどうか、ただそれだけよ。

とあたしは言った。

俺には分からない。でも、少なくとも、きみがそう言ってくれるのは嬉しいよ、とジェイクは言った。

 

5、

 

それから、あたしは、煙草を消して、今度はマリファナに火を付けて、急に思いついたことを言った。

ねぇ、フロリダに行きましょうよ。あたし、子どもの頃から、ディズニーワールドに憧れていたの。ダンボの乗り物があってね、ずっとそれに乗りたかった。あなたも気分転換になるわ。ねぇ、行きましょうよ。あたしたち、知りあってから、遠くへ行ったことがないじゃないの。

ジェイクもマリファナを吸い、あたしをじっと見ていた。

ディズニーか……それもいいかもな。うん、素晴らしい思いつきだ。メイジー、どうして、今まで思いつかなかったんだい?もし、本当に行けたなら、俺たちは最高に幸せだろうな。

もちろん行けるわ、誰にも止める権利はないもの。朝一番に、旅行代理店に連絡するわね、とあたしは言った。

一週間くらい、街からいなくなったって、ブルネレスキも文句は言わないだろう、いや、言わせない、向こうの都合ばかり聞いていられないしな、と彼は言った。

その通りよ、ジェイク、とあたしは言った。

リビングは、ふたりが吐く何かでいっぱいになった。

なぜだろう?

ふと、あたしは、ジェイクとのあいだに、小さな5歳くらいの息子がいるのを想像をした。

3人でディズニーワールドに出かけて、ミッキーマウスやグーフィーと写真を撮ったり、歩きながらホットドッグやポップコーンを食べたり、夢のお城を背景に派手な花火を眺めたりする光景を思い浮かべた。

突然、ジェイクが、あたしの頬にキスした。

子どもにするみたいに。

これから先、あたしがこの男の子どもを授かることはあるのだろうか?

あたしは彼の顔を見た。

虫一匹殺せそうにない、人の良さそうなファニーフェイスだった。

あたしは、辺りに漂う見えない何かを手で追い払い、追い払い、追い払い、部屋の天井にぶら下がった小さなプラスティックのシャンデリアを見つめた。

そして、心から思った。

 

あたしはお金がほしいわけじゃない、お金なんかいらない。

 

ねぇ、ジェイク、飲みましょうよ、とあたしは言った。

メイジー、俺が飲めないのを知ってるじゃないか、と彼は笑った。

でも、あたしがつまらなさそうな顔をすると、彼は仕方ないなと立ちあがって、冷蔵庫からアンカースチームの6本パックを出してきてくれた。

飲むつもりなのだ。

彼はビールを2本開けて、1本をあたしに渡した。

ふたりは乾杯した。

冷蔵庫には、サミュエル・アダムスの6本パックがまだ冷えているはずだった。

あたしたちは、酔っぱらわなければならない。

もうすぐ、ジェイクの顔は、みるみる赤くなっていくだろう。

それを見て、あたしは思う。

なんて、信じられるひとなんだろう、と。

彼は目を閉じていた。

ソファにじっと座ったまま、不安定なこの世界で、なんとかバランスをとろうと頑張っているようだった。

きみのために、と彼は言った。

 

彼は死んでしまう、とあたしには分かっていた。

でも、それは先のことだ。

未来のことなのだ。

 

ジェイクが青いチェックのシャツを脱いだ。

普段から鍛えてある、美しく引き締まった肉体。

あたしは、彼がラルフローレンのパジャマを脱がせてくれるのを待つ。

途中で、彼は寝てしまうかもしれない。

それでもかまわない、とあたしは思う。

こんなにも、この瞬間が愛おしいのだから。

 

The End
『ガラスの航海』
The Glass Voyage
表紙 :Frank W. Benson, Eleanor, 1901, PD


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