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カーサブルータスとかにいい加減うんざりしている

私はカーサブルータスが好き
andプレミアムが好き
暮しの手帖が好き
キンフォークが好き。
北欧、暮らしの道具店が好き。

でも同時にそれらにウンザリもしている。

いつも素敵な家、素敵な道具、丁寧な暮らしが滲み出る手触り、デザイン。手仕事の愉悦。
竹ザル一つに3千円をかけられる有閑階級の道楽。

どんな仕事をしていたらこんな素敵な家に住めるのだろうか、こんな素敵な道具で身の回りを固められるのだろうかと思いを馳せる。
登場人物たちはおおよそスタイリスト、ライター、エッセイスト、デザイナーと資本主義の台風の目から離れた場所にいる人たちだ。曲がり間違っても外資の投資銀行マンはいないし、IT系の起業家もいない。つまり特権階級なのだ。ガメつく稼げる仕事に就く必要がなくとも受け継がれる資産とセンスがそこらじゅうに揺蕩う。資本主義の半透明のベールがヒラヒラ風に舞っている。

雑誌から視線を外すと見えてくる我が家。ミニマリストの様に捨てられるわけもなく、こんまりの様に整理できるわけでもなく、プラスチックに囲まれ油で汚れたキッチン、子供がこぼしたシミのついたテーブル(80,200円、フライミー)。素敵な暮らしに変えたくて買った植物(多肉植物3,200円、鉢カバー4,000円。カシカ)は、同じくインスタ映えするはずだった猫(保護猫、30,000円x2匹)に齧られていて床に土が溢れている。
永遠に子供が作った牛乳パックを貼り合わせた作品と猫のゲロと毛が落ちている。ルンバすらお手上げのこの家に、職人が作った精緻な箒(20,900円)では到底間に合わぬ。変わらぬ吸引力で吸い込むダイソン(37,000円、楽天)でなければ間に合わぬ。

私はウンザリしている。一層全てを捨ててリノベーションの団地に引っ越したいと思うのに、築45年の団地に4000万もローンが組める気がしない。

私の生活は毛まみれで汗まみれではあるけど、それなりに満足しているはずだった。丁寧でもあり乱雑でもある。それなのにあの素敵なライフスタイルコンテンツたちは私に質疑を投げかける。

「お前は間違っているぞ」って。

そこで売られている六千円のスリッパ(コンランショップ)を買ってもおそらく5分経たないうちに毛まみれになるし、提案された3千円の琺瑯の蓋付容器(野田琺瑯)を買ってもすぐに蓋を無くすに決まってるのに。

私はウンザリしている。等身大の生活を綴った特集は絶対にやってこない。そうしなければ商品が売れないからである。和洋折衷があっても、甘辛MIXがあっても、百均のプラスチックタッパー(ダイソー)と琺瑯の美しい手仕事のケトル(HARIO 7,700円)のミックスコーデは見つからない。整理されていない書類とノベルティのペンと耳かきとお菓子が散乱しているカウンターコーナーなんて色物を扱う都築響一ぐらいしかコンテンツ化できないだろう。

70年代に電通の戦略10則は単刀直入にこう書いてあった

もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ

私は生活に不満をもっている。おしゃれライフスタイル誌によって流行遅れになり、混乱し、無駄遣いをしたくなり、ずっとずっと新品か綺麗に使い古して識者に評価されたヴィンテージ品をstarnetとかで買う衝動に襲われている。


ピーター・ドラッカーは「会社の目的は顧客の創造であり、企業の第一機能はマーケティングである。」と言った。マーケティングはつまり、問題がないところに問題を作り出す仕事である。

私は権威づけされたライフスタイルに問われている、問題提起されている、踊らされている。都心の文化資本家に熱した鉄のダンスシューズを履かされて踊り続けている。

多分これからもカーサブルータスを買い、andプレミアムに紹介されたような生活に憧れ、北欧の道具店で売られている名品になけなしの銭を叩き、そして現実の油染みと猫のゲロと印刷の床材に心を引き裂かれる。

愛しいライフスタイル誌よ、私はウンザリしながらもこれからもあなたの忠実なハムスターである。

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