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年取って味覚が変わったので

好きだった食べ物が好きじゃなくなり、好きじゃなかった食べ物を少しずつ好きになってきたことに年齢の重なりを感じた今日この頃。

カップヌードルとケンタッキーとポテチがあれば生きていけると思ってた10代の頃
まさかどれもキツくなると想像すらできなかった。
ケンタッキーが厳しくなったのは30代入ってすぐ。ケンタッキー食べ放題に憧れていたのに、4pcでちょっと気持ち悪くなったのが衝撃的だった。あんなに好きだったフライドチキンの衣がもうギトギトに油を吸ったあぶらとり紙にしか感じなかった。
そこから一気に霜降り和牛がダメに。
その次にダメになったのはラーメン。
あんなに好きだったラーメンは食べた後えも言われぬ膨満感で脱力してしまう。今度こそは、と思いながら何度も挑戦して何度も敗北し、賢者タイムに入りラーメン屋に入ったことを後悔すること数知れず。

そしてつい最近、ポテチもカップヌードルも美味しく感じなくなってしまったということに気づく。マックのチキンナゲットもフライドポテトもだ。流石にもうお手上げになってしまった。
満足の地平線が限りなく遠いところへ行ってしまい、カップヌードルの謎肉ですら癒せない不満と喪失の大地だ。

一方であろうことにアンコが美味いなと思うことがだんだん増えてきた。
アノ、とらやの羊羹とかね。
あんな砂糖と豆の塊にあんな高いお金を出すのは浅薄の極みと蔑んでいたのにすこぶる美味いのだ。そう、豆と砂糖の塊だ。
特にとらやのあんペーストは絶品。バターなんぞと一緒にコッペパンに挟めばまさにスイーツ界の大トロ。堂々たる横綱だ。

それに昔嫌っていた中国の肉松。親が勧めてくるのを断りきれずいやいや食べていた肉松がこんなに美味いなんて気づかなかった。サクサクした食感、上品な甘み、干し肉の旨みがぎゅっと凝縮されていて、いくらでも食べられそうだ。

子供の時に嫌いだった酢豚(上海の黒酢の酢豚)、これもまた絶品だと感じる様になった。深みのある香醋の酸味と、砂糖の甘みがうまく組み合わさってスペアリブの豚肉に絡む、噛めば噛むほど旨味が出てくるのだ。

そして何より野菜だ。野菜が美味い。こんなシンプルなことを知るのに何十年もかかってしまった。体が多分野菜を欲している。だからうまく感じる。滋味深さ、とか野菜の甘み、テレビレポーターの口から聞いて「はぁ?」と思ったワードの数々についに身体がついていけた。たぶん味蕾が刈り取られて苦味やエグ味を感じにくくなってしまい、一方で旨みを感じやすくなっている気がする。そんな物理的な現象が間違いなく起きているはずだ。

身体が喜ぶとか、身体がほしがるとか
馬鹿なこと言ってんじゃないよ、身体とはこの私、私の意志すなわち私の身体である!と思っていたのに、そんな宣伝文句が刺さる。身体が喜ぶとか食べ物が欲しいと思うターゲット層になりつつある。身体が喜ばなそうなインスタントな愉悦にだんだん拒否されていく寂しさを味わっている。
違うんだ、意識高ぶりたいわけじゃない、自然派気取りってわけじゃないんだ!と叫びたいのに体がポテチを拒否する、ケンタッキーを拒否するから手に負えない。

歳を取ると私の体はだんだん私のものじゃなくなる。身体という物理現象が服を着てひとりでに歩き出そうとする。たぶんPMSを抱える女性はもっと早くからそのことに意識が行っていたのだろうが、幸いか不幸か、私はほぼPMSがない。病弱さですら自分の意思の結果のように思えた。身体が独立した存在であったと気づくのは30代なかばからだ。

たぶんこれからどんどん私の身体は私の意志から遠ざかっていく。サプリメントとか必死で飲んで運動を必死でしても、きっと遠ざかっていく。そもそも10代や20代の時に持っていた身体を思い通りに支配できていたという感覚も、身体と意志は一致しているという観念も、きっと誤解で幻なのである。そんなものは最初から存在しない。
私の意志だって物理現象であるからだ。身体とはただ別の物理現象で、眼や鼻や口や耳や指を通して感じ取った現実を統合した先のリアクションに過ぎない。

そう思うと気が楽になった。

若者よ、大人が何を言おうと、好きなものを食え。

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