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精神科医の講演を聴いて感じたこと

「弱い思考ほどカテゴリーを作って強い思考にしたがる」

先週末、縁あって精神科医の講演に行ったとき耳にした印象的な言葉である。

その方は、主に学校などで集団生活に馴染めるか心配されている小学生以下の子供を診ている。

彼らの多くの親が、自分の子どもは「普通」かどうか、あるいはどんな病名が付くのかを聞いてくるのだが、
当然一人一人異なる特性を無視して、安易に特定の解決法に当てはめるのは危険な考え方だ。

・・・という話をしていたと思われる。

この言葉を聞いてから、ふと僕はこういう現象って「医療の世界だけじゃないよな?」と思い、
気づいたら一人で勝手に連想を始めていた。

他人や自分を信じられず、気持ちが不安定な人ほど自分を「カテゴライズ」してくれる集団や属性、
肩書きなどに頼る傾向は、世の中のさまざまな場面で見受けられる。 

自分の性格や価値観に自信がない、ないしは人に説明(して好感持たせることが)できない人は、
占い、心理テスト、(信仰)宗教などに拠り所を求める。

本当は自信がないけど、実は自分が何かにおいて優れている、
世間一般の「普通」より劣らないということを他人に分かって欲しい人ほど、
人種、体の特徴、仕事・立場・肩書き、学歴、スクールカースト、普段どんな人と仲良いか・・・といった属性を気にする。

上記のように、医者という公的機関から病名という「属性」が与えられていれば、
その子が仮に何かトラブルに巻き込まれたとしても周囲へ理解を求めやすい。

健康な人との差が明確になり、
「健康な人に近づく為に努力をしている子(とその親)」として社会に受け入れてもらえる。

このように、周囲との間に不適応を起こしそうでも、
その人が病気や障害などの事情を抱えていることが分かると、
「だからあの人は・・・」などと、僕たちは急に納得してしまいやすい。

・あいつは発達障害だから、会議中にトンチンカンなこと言うのか、なるほど。

・彼は貧しい境遇で波乱万丈な生い立ちをした短気なのか、なるほど。

といった具合に。

そういう感じ方には差別的な感情を含んでいる。

それでも、自分が何者か分かってもらえず「不審者」扱いされるよりは、
まだ一応コミュニティの一員に入れてもらえた気になれる。

だから、この講演者の元へ診察に来る子供の親の気持ちは分かる。

ただし、診断の結果「病名」が明らかになり治療を始めたからといって、
この医師の言う通り本人にとって適切かどうかは分からない。

また、診断を受けたと周囲に話したところで、かえって誤解を招くかも知れない。

人権意識が強まっているご時世だけに、過度に気を遣われるかも知れない。
あるいは、表向きには「私は味方だ」などと言っておきながら敬遠されるかもれない。

その結果、更に親子を孤立させ、追い込み、
親は子ども自身に現状から過度に変わることを要求するようになりかねない。

「普通」の子と同じような振る舞いができないことを厳しく責めるようになるかも知れない。
あるいは、病気という「カテゴリー」だけだと世間的に面子が立たないからと、
別の良い「カテゴリー」を求めるようになる可能性がある。

僕が知っている例では、友達を作ったり運動したりすることが不器用な代わりに、
勉強ぐらいがんばれと、急に教育ママに変貌する人もいた

当然、そんな自分の親や周囲の大人の価値観を押し付けたら自分を嫌いになるだろう。
しかもその子自身、自分にも他人に対しても、それこそ属性の色眼鏡で判断するようになってしまう。

僕自身、中学に上がる頃には等身大の自分を受け入れられず、
自分以外の何かになることで自己を保とうとしていた。

特に高校くらいまでは、無理やり強気なキャラクターを演じて、
かっこ良くて発言権の強いグループに入れてもらおうとしていた。

だけど、いつも一緒につるむ程度に仲良くなったとしても、
悩みや真剣な話など、弱みを見せたり助けて欲しい時に頼った記憶はほとんどない。

そもそも学校でのグループは卒業してしまえば何の価値もなくなるし、
学校外(下手したら特定のクラス外)では元々価値を判断しようがない。

肩書きや所属集団の価値は一部の人の間でしか共有されない上、
(大人の世界でよく言われるように)地位や立場で評価されているとしたら、
自分がその集団を去ったらばその人からは相手にされなくなる。

大学で「特待生」で入学して、在学中に色々と資格を取ろうと、サークル等で活躍しようと、
学外の人にとっては「だから何?」「それであなたは何ができるの?」という感じだろう。

飲食店に住み込んで働き始めてからは、下積みを経て店長になり、友人の伝手も利用して経営者になった。その時は20代後半の僕に対して、どう見ても自分の倍近くの年齢の大人たちに媚を売られた。

しかし店は3年半前に経営が悪化し身売りせねばならなくなった。自分の元には多額の借金だけが残った。結婚目前まで6年半付き合っていた彼女とも別れ、世間で言うところの「リア充」でもなくなった。

今現在、その当時僕の仕事を口では評価してくれた人たちとの付き合いはほとんどない・・・

よく考えたら、僕は中学上がるくらいまでは、
自分のことも人のことも肩書きや世間の評価によって判断することはなく、中立的に捉えていた。

誰に教育されたのではなく、悪く言えば世間知らずだったが、
自分の尺度だけで物事を捉えていた時期が多くの子供よりも長かった。

しかしいつの間にか、社会・他人の影響で、型にはめなければならないと思い込んでしまっていた。

今は教員としてまあ平凡な毎日を送っているが、
自分に対しても人に対しても以前とは比較にならないくらい信頼できているので、
前に比べたらストレスも減ったと感じる。

・・・そんなこと考えている間に、講演が終わってる!
完全に自分の世界に入っていた。職場の会議じゃなくてよかった!

おれも何かしら注意不足の「症状」でもあるのかな?
まあでも、誰にも迷惑かけてないし、みんなそんなもんだろう。

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