創作消費者であること

 引きこもり生活2ヶ月目。今日もありがたいことに素晴らしき人々の生み出した創作に触れることができている。それらは、この圧倒的に無意味で無価値で、かつ危険な時間に潤いを与えてくれる。僕にとって今も昔も、創作というものは僕の人生に大きな影響を与えている。
 創作と表現しているけれど、ここでいうその言葉は、言い換えると文化に当たる。
 文化。人々が生きる中で生み出してきた知恵や感性、経験、そういったものを体系的にまとめ上げた、まさにヒトという種族の生きた証そのものであり、ともすれば文化に触れることは人間の生きる意味と言っても差し支えがないような気もする。虚無主義に支配された人間の言葉だと嘘らしいけれど、こればかりは切実に思う。
 創作とは、つまりヒトという種族が、もっと個人に焦点を合わせて言えば、それを作った者の生きた証だと僕は認識している。だからそれを消費する僕は、創作者に多大な尊敬と感謝をしなければならない。しなければならない、というか、させて欲しい。ありがとう。
 僕は昔からそんな素晴らしき創作をする人たちに憧れがあった。憧れ。それは純粋であり、少し汚い感情も含まれていると思うのだけれど。
 最初は絵だった。僕は保育園にいた頃はずっと絵を描いて遊んでいた。小学校に上がってからも、休み時間はずっと絵を描いているような人間だった。するとなぜだろう、人が集まってくる。僕が描く絵を上手いといい、楽しそうだといい、僕はなぜか編集長などと呼ばれて、昼休みにみんなで外へ出て写生をするなどしていた。
 気持ちが良くなかったといえば嘘になる。思えばその頃から歪だったのだけれど、僕は段々と創作それ自体を楽しんでいるというよりは、そう、もっといえば、自ら生み出した作品に敬意を払い自己満足するわけではなくて、創作をしているという行為を客観視したときに映る自分の像を愛ていたように思う。つまり、僕は作品を作りたいんじゃない。作品を通して、僕を見て欲しかっただけなのだと思う。
 そう言うと、「いやいや、創作者はみんなそんなものだろう」と思うだろう。けれど僕のそれは過ぎていた。僕は自分の作品でよくできたなと思うことはなかったどころか、注目や賞賛、評価が得られないからつまらない、と思いさえした。
 思うに、創作者は、うちに秘めた何かを放出する芸術家だとも言える。僕にはそれがない。自分の強い思い。自分が伝えたいこと。この世界に、他人に知って欲しいと強く思うこと。願い。溢れ出すプラスの感情とマイナスの感情。笑顔にしたいとする意志。渇望する希望と、体験した絶望。そういった人間感性や経験の現出作業が創作行為だろう。大袈裟な表現だけれど、簡単な話で、伝えたいという意志があって、初めて人は創作者となれるのであり、芸術家であるとも言えるのだと、僕は思っている。
 表現が大それ過ぎていて、微妙に共感できない創作者を自認する者がいたとする。別にそこまでの強い意志はないと。それでも君は創作者であり、芸術家だと僕は思う。君が作るものは、君そのものだ。そこには少なからず君の趣味趣向、伝えたいことや、楽しませたいという意志があるだろう。あるのなら、君は自信を持って創作者を名乗ってほしい。
 僕は創作者ではない。創作者ではあれなかった。話を戻そう。小学校のとき、僕は編集長などと呼ばれてそれ自体に気持ちが良くなっていた。絵が上手いとか下手だとかではない。自分が上手く描けたとか成長したとかではない。他人を統べる感覚。自分に力があると思い込んで悦にいっていただけだったのだ。
 ある日、とてつもなく絵が上手い奴がたくさん集まってきた。みんな彼らの絵を上手い上手いと囃し立てたし、僕も感動した。それと同時に悔しかった。なぜ悔しいのか? その頃から編集長という肩書きは消えて、僕はただの苗字くんになっていた。ただの苗字くんは、他人を統べることができなくなったことが悔しかった、というわけではない。ただ、自らよりも数倍優れた存在がごまんといることを知って、怖くなった。彼らには意志が感じられた。こういうのが好き! こういうのも面白い! そういう溢れんばかりの意志を見て、僕にはそういうものがあるのだろうか? と問い続けることになる。
 中学に上がると、一層「創作者たること」に憧れるようになった。DSiのうごくメモ帳、と言うと懐かしいと感じる層がいればハートでもコメントでも、交流のない小さな同窓会のように残して欲しいけれど、そこに作品を投稿したり、ブログを書いたり、とかく「つくる」ということに素晴らしさを感じた。
 必死になって、夢中になってやっていたわけではない。意志があったわけでもない。ただ、憧れ。それだけだ。そこには意志がなかった。何を伝えたいのかわからない。何を表現したいのかわからない。でも「創作者でありたい」という意識だけはある。それはつまりどういうことなのだろう? そう思うと吐き気がした。つまり僕は、先述したように、創作それ自体を楽しんでいるというより、もっと言えば、自ら生み出した作品に敬意を払い自己満足するわけではなくて、創作をしているという行為を客観視したときに映る自分の像を愛ていたのだ。僕は作品を作りたいんじゃない。「創作者でありたい」理由は、創作というものを神聖視しており、「つくる」ことは世界を生み出すことに等しく、上位の存在に思えて、近付きたく、ただそうやって僕の手から生み出された作品を通して、僕は【上】に行きたかったのだと思うし、みんなに僕を見て欲しかっただけなのだと思う。
 意志のない作品。意識のない作品。死んだ作品を僕は生み出し続けた。何かをなぞり、何かを模倣するようなことばかりだった。
 いや、それ自体は悪くない。完全な模倣はそうとは言えないが、オリジナリティとは結局誰かの模倣でしかないことばかりで、根源的な「おもしろさ」を再生産しているのであれば、それは真に創作であり、芸術なのだと僕は思う。けれども、僕のそれは違う。完全に模倣していたわけではない。ただ、そこには意志が介在しない。それを僕は伝えたかったのか? それをおもしろいと思ったのか? それが僕の精神世界なのか? それが僕の憧れへ近付きたいという強い意志の現れなのか? 違う、全部違う。何もそこにありはしない。ただ僕は、神聖なる【上】に行き、みんなに僕を見て欲しいというだけの、かっこつけの目立ちたがりだっただけだ。
 僕は創作消費者を下に見ている。そんな僕は生粋の創作消費者。滑稽でならないけれど、それが現実だ。
 だから僕は、身の回りに存在している創作者たちを真剣に応援しているし、どこか頂上の存在のように思っている。自ら学び、創ることを続け、自分のそれを他人からではなくまず自分で評価している。それがどれだけ素晴らしいことか。羨ましいと思ってしまうのは、僕が真の創作消費者たる証拠だろう。
 前からずっと尊敬している音楽を創ることに真剣な人がいる。絵を描いたり、写真を撮ったり、文章を書いている人も僕の周りにはたくさんいる。今でも僕は、彼女も彼らも、本気で応援している。いつか何かの媒体越しに、大きくなったそれを見たとき、僕はどんな顔をしているだろう。きっと笑顔。そして、僕は何を思うのだろう。僕が絶対に到達できなかったそこへ辿り着いた者を、というよりは今だって、絶対に到達できない場所を走り続ける後ろ姿を見て、僕は「ありがとう」と言うことしかできないのだろう。

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