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アカハラについて

最近、私の周囲の一部の界隈でアカハラが話題になった。仏教学の話だ。

私も以前この話に言及したことがあったのだが、いよいよどんでん返しが起こったという印象だ。

特に人文学の場合、研究ではお金も名誉も手に入りません。自分の手で何かこれまで世界で誰も知らなかったことを明らかにしたとか、自分がこのテーマでは世界のトップを独走しているとか、そういう矜恃だけを支えにして生き抜く世界です。研究してなかったら生きる意味がないというレベルの、社会の多数派の価値観から完全に外れたような人間の掃き溜めといってもいいです。また、アカハラもセクハラも他人事ではありません。

https://www.daizoshuppan.jp/news/n39180.html

下記記事の後半部分

正直言って、わたし自身もインド学や仏教学の研究者の多くに良い印象がない。もちろん仲良くさせてもらっている人は何人もいるが、傍から見ていると概して徒弟制度的な理不尽な上下関係がある業界だと感じている。

あと、これはわたしが見た範囲だけかもしれないのだが、他人のテクストの解釈や翻訳にケチをつけるのが大好きな人間がめっちゃ多い。論旨そっちのけで個々の例文の解釈で揉めているイメージがある。わたしはあくまで「ほならね理論」の信奉者だ。

上の事件で言及されている人間のうち、下田先生だけは私が学部時代にパーリ語を教わった先生で、人柄を知っているということもあり、結構ショックだった(故に私からは客観的な判断が出来そうもないから、下田先生に関してはノーコメントとさせていただく)。だが、話題に挙がった中には、わたしの経験からしてもまあそういうことしてても全くおかしくないな、という人間が混ざっていた。それが誰かは明言せずにおくが。

ちなみに、一番の槍玉の「さる先生」は東大の教員らしいが、一切の面識がない。

大山とアカハラ(?)

わたし自身は、当たった先生との相性が良かったこともあり、直接教えを受けたことのある先生と揉めたことはない。だが、わたしが対象でない所謂アカハラ・セクハラを目撃したり、噂や愚痴を聞いたことや、直接教わったことのない研究者と多少揉めたことならある。

今回話題になった出版妨害という線でいくと、出版妨害というか、ただただ目が節穴な人の被害にあったことはあった。

修士課程の時、卒業論文の内容の中で一番自信があった箇所を英語論文にしてみたことがあったのだが、その時、原稿を見せてコメントをお願いした人が、(確か無断で)とある人に見せてしまったのだ(当時准教授で、まァほどほどに業績のある人で、日本人ではない)。

その時のその人のコメントが、「多分審査通らないと思うよ。紀要にでも出したら?」だった(大意、原文は英語)。それが個人的にはかなりショックで、その原稿はその後5年以上にわたってお蔵入りしてしまっていた。

それから5年経って、研究者のポストを得てから、改めてその時の論文を改稿したものを某欧文誌に投稿してみると、見事に通ったのである(しかも"with minor revision")。今となってはむしろ貶してくれてありがとう!である。

今年の10月に出版予定、お楽しみに!

改稿したとは言ったのだが、結論は一緒で、ちょっと丁寧に補足とかを書き足したくらいである。論文の構成と提示したデータには変更がない。

不幸中の幸いというべきか、某氏の目が節穴だったおかげで、わたしにとってはかなりの得になった。なお、わたしの中での某氏の評価はこれでゼロからマイナスになった。

アカハラの対策

結局、権威主義はダメと誰もが思いつつ、実際のところは「その説を言っている人が誰か」で無意識に発言に重み付けをしてしまうというのが人間だろう。肩書きがある人間から何か言われるとビビってしまうというのは人間なら自然なことだと思う。

だから、権威のある側の人間から厳し目のコメントをするときには細心の注意を必要とする…のだろうと思う。意図的にハラスメントをするのは論外として、無意識的にやってしまわないように特に気を配る必要がある。わたしも今となってはハラスメントをしないようにする注意が必要な立場になった…はずだ。

今の日本の大学のハラスメント対策の制度はほとんど機能していない。だから制度面の改革を期待するのも当然そうなのだが、現実的には各人がハラスメント回避術を身につけておくことが確実なんじゃないかと思う。アカハラの大多数は指導教官からだろうから、真っ先に言及しなければならないのは下調べの重要性だ。

指導教官以外からのアカハラについては、正直なところ指導教官に守ってもらう以外の対応が思いつかない。今回話題になった清水氏のように、指導教官以外から理不尽なヘイトが飛んできて、かつ指導教官も守ってくれないとなると、わたしだったらもうあとは泣き寝入りするか物理的に暴れるくらいの選択肢しかない。

物理的に暴れるのは明らかに「わるあがき」の反動どころではないデメリットを伴う選択肢なので、どう考えても本当に本当に最終手段である。「そいつより偉くなって見返せばいい」というのは言うことこそ簡単だが、そんなことが簡単にできたら誰も苦労しない。やはり指導教官の人となりは事前によくよく調査しておくべきだ。

あと、ひとつ留意しておくべきなのは、別に大学院に入ったからといって必ず研究者にならねばならないわけではないということだ。日本の多くの研究者の待遇ははっきり言って悪いので、普通に就職して普通にお金を稼ぐだけである意味復讐になるということも十分あり得る。自分で自分の可能性を狭めないのが吉なんじゃないでしょうか。

おわりに

…というわけで、今回の記事は以上です。指導教員をこれから選ぶことになる皆様は、あくまで指導教員選びは学生側に選択権があるということを意識しておくと良いと思います。

専門をがらっと変えるなら話は別なのですが、修士課程で失敗しても博士課程で別の大学院に行けばいいじゃない、という発想はちょっと危険です。とにかく、修士に入る前の下調べが重要です。まあ、わたし自身は根本的に大学院に進学すること自体をお勧めしてないんですけどね。

以上、大学院とハラスメントの話でした。備えあれば憂いなし、とも言いますし、入院してしまう以上はなるべく良い大学院ライフを過ごしましょう。出た後のことも含めて、入る前によくよく考えてから、が基本ですよ。わたしはまあ本当にダメだったら自主的にこの世から退場すればいいか、と決めていました。


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