『DEATH NOTE』から考える善悪。(2/2)

夜神月(ライト)の純粋な悪とは何なのか。このことについて述べるために、カントの全の定義である定言命法を取り上げたい。

カントの定言命法とは、簡単に述べると、絶対的条件の順守である。例えば、「人を殺してはいけない」ということを定言命法とした場合、いかなる条件であっても人を殺すことは悪になる。ただ、カントはこの定言命法を具体的に何であるかは定義をしていない。カントの定言命法の有名な例として「嘘をついてはいけない」がある。カントは「絶対に嘘をつかず、お互いに正直に、社会を営むべきである。」と述べているが、これは正直、順守するのは不可能に近い。そのため、これについては様々な批判がある。しかし、カントにとっては、これが善の定義である定言命法であり、絶対条件であるため、条件を変えることはできない。

さて、ここでカントの善と月を比較すると、月は絶対無条件の下、殺人を行っている。彼はある原則に基づきながら、次々と殺人を行う。つまりこれは定言命法であるといえる。絶対無条件下で殺人を行うことは、善の定義と同じ構造で行う悪であるといえる。

このことから『DEATH NOTE』は、あくまで架空の物語でありながら、善の定義と悪の定義が一致する、善と悪の区別がつかなくなる場合があることを示していることわかる。現代社会において、私たちにとってどんな人生が理想か、正義や善の理想とは何かが見えにくくなっている。これらについて誰かに定義されるものでもない。だからこそ、この社会には善と区別のつかない悪が存在してしまう。オウム真理教も極端の例ではあるが、悪を善として遂行してしまうことがあり得るのである。

前回、カントの3つの悪の定義について述べたが、カントの哲学では善と悪が完全に対等ではない。善というものが先立ち、そのうえで、衝動や欲望があり悪に転ずる。つまり善の欠落を以てして悪を定義している。しかし、『DEATH NOTE 』ではむしろ悪が先にある。この物語では先に、月が登場し、Lが敵役として登場する。善と悪の対決においても、むしろ悪のほうに優位性がある。大抵の物語では、善が先に現れ、その後に善を邪魔するために悪が現れるが、『DEATH NOTE 』ではこれが逆転している。このことからこの作品は私たちに、実は善よりも悪のほうが本質的であり、悪が先立ち、それに対抗する者として善が定義される、そのような世界観を示していることがわかる。実は、このことを私たちはキリスト教を通じて既に理解している。キリスト教には「贖罪」という概念がある。これは人間が悪を選択して生まれ、その原罪を贖う形で善の定義がされている。つまりこれも悪が先立ち、後に善が出てきていることがわかる。『DEATH NOTE』はこのことをより顕著に表現することで、悪が善そのものと区別がつかなくなることを描いたのである。

これまで4回にわたり善悪の変容について述べてきた。前半は「あさま山荘事件」と「東京地下鉄サリン事件」を取り上げ、最後に『DEATH NOTE 』を取り上げることで、このサリン事件の善悪について肉付けする形で展開した。サリン事件については、オウム真理教が、形式としては善と同じ構造で悪(殺人)を行使し、善なるものとして悪、善と見紛われる悪について述べた。最後に、大澤真幸はこの悪のことを「アイロニカルな没入」と表現している。「アイロニカルな没入」とは、原文ママ引用すると「そんなことは悪いことだとわかっているけどさ」といった感覚のことある。ある事柄に対して、距離をおきつつ批判的な立場を保つが、しかしいつの間にかのめり込んでしまう。そのような状態を表している。この具体例として、トランプの当選が挙げられる。当時、トランプを当選するとはほとんどの人が思っていなかった。トランプを支持すればバカにされ、批判されることだとも誰しもが認識していた。しかし、それでもトランプを支持してしまう。そのような現象があったのではないかと思われる。ではトランプが絶対悪かと言われればそんなことは勿論ないわけだが、実際トランプが当選したという事実を見る限り、人々の間に「アイロニカルな没入」が見られたのではないだろうかと考えることができる。このように「アイロニカルな没入」を突き止めていくと、ある時を境に悪が善の形式へ転じてしまうことがあることを、私たちは頭の片隅に入れておいても良いかもしれない。

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