映画『かそけきサンカヨウ』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

我思う故に我あり

きっと本来の意味と違っているだろうが、映画『かそけきサンカヨウ』(今泉力哉監督、2021年。以下、本作)を観て、そう思った。
本作の登場人物は誰一人として、「いいね!」などと他人に認められることで自分のアイデンティティを獲得しようとは思っていない。
自分の中の「わからなさ」「曖昧さ」「言葉にできないモヤモヤ」を素直に認めて、それを解消しようとしたり、受け入れたり、やり過ごしたりしながら「自分」を生きていこうとしている。
そうするのが「自分であること」だと、ちゃんと理解している。
現代社会に当たり前にありそうで、でも実は意外とない物語なのではないだろうか(他人に認められたくてジタバタする映画は数多あるし、現実世界でも「承認欲求」という言葉がメジャーになるほど、承認欲しさにジタバタしている人がたくさんいる)。

と書き出した本稿、「本作に関する感想」ではなく、映画に関連して思った取り留めもないことを書いている。
だから、本稿は批評でも解説でも紹介でもない(そういう情報が欲しい方は別の記事をお探しください)。
また、取り留めもない思いつきゆえ、間違い等も多々ある(だろう)。
ということで、本稿の信ぴょう性は全くない。
予めご承知置きを。


さてと…

窪美澄氏の同名短編小説を主軸に『ノーチェ・ブエナのポインセチア』(いずれも「水やりはいつも深夜だけど」(角川文庫、2017年)に所収)のエピソードも重ね合わせた(今泉監督と澤井香織の共同脚本)本作は、従来の今泉監督作品とは違い恋愛や友情を前面に出さず、登場人物たちの「かそけきき(今にも消えてしまいそうなほど、薄い、淡い、あるいは仄かな様子を表す語(出典Weblio))」心の機微を表現した作品となっている。

高校一年生(物語は入学の少し前から始まる)の国木田陽は、映画音楽の仕事をする父・直(井浦新)と2人暮らし。日常の家事は全て陽がこなしている。
水彩画家として活躍している母・佐千代(石田ひかり)のことは、陽が幼い頃に家を出ていったため、「かそけき」記憶しかない。
ある日、直が「再婚したい相手がいる」と言い、美子(菊池亜希子)と彼女の幼い娘・ひなた(鈴木咲)を加えた「4人家族」での生活が始まる。
陽は、中学から同じ高校に進学した幼馴染・清原陸(鈴鹿央士)のことが気になっている。周りからも陽と陸は「お似合い」と思われているが、陸はそれに気づいていない。
新しい家族との生活が始まった頃、陽は意を決して、ずっと会っていなかった佐千代の個展を見に行き、母が再婚して子どもがいること、それ以上に、彼女が自分の事を覚えていなかったことにショックを受ける。
新しい家族との生活、実母への想い、陸への恋心などを抱えた陽と、そんな彼女と接する周囲の人たちの、繊細な心の機微を丹念に描いている(後半は陸に焦点が移るが、本稿では扱わない)。


『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年。以下、『パンバス』)や『mellow』(2020年)など、今泉作品の常連とも言える志田彩良が遂に主演する本作、彼女が演じる陽は、前出2作と違い、強い気持ちを内に秘めた繊細な女子高生だった。
「大人びているなぁ」と思ったのは、もちろん彼女自身も年齢を重ねているからではあるが、キャラクターの違いも大きいのではないか。
同じ女子高生役でも、『パンバス』の二胡には姉・ふみ(深川麻衣)がいたし、『mellow』の宏美は「九九の7の段が言えない」と小学生にツッコまれるなど、無邪気さが残るキャラクターだった。
しかし本作は、父親と2人暮らしで幼い頃から家事全般を担っていた「しっかり者」だけに、大人びて当然である。

陽は美術部所属で継母・美子をデッサンするのだが、そういえば『パンバス』の二胡も美大志望で、姉・ふみをデッサンしている。


美子を演じる菊池亜希子も良い。
最初は陽に気を遣い微妙な距離を取っていたのだが、陽が叔母からもらったレシピノートを見せてもらっている時に陽から話しかけられて「ふん…」と何気ない生返事を返すシーン。
今の生返事は、無意識なのか、それともそれを装っているのか?
と引っ掛かった直後に、陽から関係が激変する大切なセリフが発せられる。
解釈は色々できるだろうが私は、陽がそれを「決める(そう、皆で決めたのだ)」前から、美子は自然と陽を娘として受け入れていたのだ、と思った。
で、「解釈が色々できてしまう生返事が果たして演技的に良いのか?」ということになるのだが、それ以前に、そのシーンで引っ掛かるような演技をしているのが良いのだ、と私は思った。

で、菊池亜希子と言えば、映画『グッド・ストライプス』(岨手由貴子監督、2015年)。
南澤真生(中島歩)が、幼い時に両親の離婚で別れた父親に、菊池演じる萬谷緑との結婚を報告するシーンで、2人が久しぶりに会ったのがホテルのラウンジ。本作では、陽と佐千代が久しぶりに会ったのがカフェ。
…ちょっと、こじつけが過ぎるか…
(ちなみに、父親役は当時活動休止中だった子供ばんどのボーカル&ギター、うじきつよし。母親役が、当時再結成前のバービーボーイズのボーカル、杏子という、私の青春時代を彩ったミュージシャンだった。これは余談)

菊池亜希子主演で一番好きな作品が『森崎書店の日々』(日向朝子監督、2010年)で、「別の人と結婚するから」と一方的に振られた貴子(菊池)が叔父であるサトル(内藤剛志)に泣きながら心情を告白するシーンの長回しが印象的だ。菊池がセリフを吐くまでの間が恐ろしく長いのだが、きっと菊池が言えるまで内藤が何もせず踏ん張ったのではないか。それはたぶん、計算ずくではない。
同様の長回しが本作にもあって、佐千代と別れたいきさつを直が陽に話すシーン。パンフレットによると10分程度あるらしいが、ここにも恐ろしいほどの間がある。計算されたものでないのは、監督と井浦が考えて台本に加えたセリフでテストした際『陽役の志田が"足された父の台詞"を飛ばして、その後の自分の台詞を言』ったことからもわかる。今泉監督は言う。

あれは志田さんのミスではなく、そういう役者の生理だったんだと思います


成長しないけれども、わからないことは「わからない」と言える、自分に正直な登場人物

本作、観方によっては「不親切な映画」である。
何故かと言うと、「説明しないから」。

と言っても、ハナから説明セリフや状況描写がない映画とも違っている。
本作の「不親切さ」は、登場人物たちが、わからないことを一般的な模範解答などで取り繕ったりせず正直に「わからない」と吐露し、また映画自体も何かヒント的なものを示唆したりせず、観客の知りたい欲求を遮断してしまうことにある。

それが意図的だったことは、先の長回しのシーンについての今泉監督のコメントでわかる。

このシーンでは父親自身、整理ができた状態で喋っているわけではなくて。でも、"その時はそうだったと思うけれど、でも結局、いまだに自分でもわからない"と言えることってすごく大事な気がしていました。

さらに、「ハナから説明セリフや状況描写がない映画」と違っているのが、登場人物が「わかること、体験したこと」はちゃんとセリフにしてくれる点。

たとえば、直は、陽から佐千代の気持ちを問われても「わからない」。何故なら、自分は佐千代じゃないから。「一般的にはこうだろう」という「模範解答」はあるが、佐千代もそう思っているかはやっぱり「わからない」。だから言わない。
しかし、陸の母親(西田尚美)が、義母(梅沢昌代)が陸に過保護であり、それにより自分がいびられていることをどう思うか、と陸に問われれば、答えられる。何故なら、それは事実自身に起こったことであり、自身の言葉で話せるから(このシーン、パンフレットによると初号試写ですすり泣きが聞こえたそうだ。独身オヤジの私は想像しかできないが、きっと母親は実感として「わかってしまう」のだろう)。

これらは全て、今泉作品に共通することではないか。

CSの日本映画専門チャンネルで放送された番組『いま、映画作家たちは2020 監督 今泉力哉にまつわるいくつかのこと』で、AV女優/コラムニストの戸田真琴氏が今泉作品についてこう語っている。

割り切れない人たちがたくさん出てくる。本当は皆、内側で悩んでいたりする。その人たち同士で恋愛が起こったりするのが、リアル

そういった人たちの中で、各々の関係性のバランスは不均衡だ。それは恋愛にも通じる。
たとえば、本作でも陽・陸、そして彼女らと中学時代からの同級生である沙樹(中井友望)との三角関係が示唆されるが、お互いのバランスは崩れている(ちなみに、三角関係が解消されたことを示唆する雨のバスケットコートでの沙樹のシーンは映画的に秀逸で、結構グッときた)。

『愛がなんだ』(2019年)、『あの頃。』『街の上で』(いずれも2021年)で今泉作品に出演した俳優・若葉竜也は言う。

人間同士が(100対100のように)同じパーセンテージで想い合っていない。不均一が起きている。世に出ているラブストーリーへのアンチテーゼを感じる


で、そんな構成の本作は必然、希望めいたものは示唆されるが、結局ほとんどが明確に解決されないまま終わる。
換言すると、「物語の中で誰も成長しない」。

映画評論家/ライターの森直人氏が指摘する。

(映画の)魅力的なテンプレとして「通過儀礼的な物語の構造」が鉄板としてあるが、今泉監督は映画の1.5~2時間の中で主人公が成長する構造を嫌う。「そんなに簡単に人間が成長してたまるか」

前出の若葉も『一歩も、誰も、成長しない』と、同様の証言をしている。

(参考↓)

つまり本作は、従来の今泉映画ほどわかりやすく恋愛や人間関係が表現された群像劇ではないが、今泉監督の本質がギュッと凝縮された優れた青春映画なのである。


中華料理店の円卓なのに一列に横並び

本作で思わず笑ってしまったのは、陽が美子とひなたに初めて会う、中華料理店のシーンだ。
(直を含め)4人は円卓なのに、何故かスクリーン(=カメラ)に正対して、一列に横並びしているのである。

こう書くと不自然だとわかるが、実際映画を観ると案外気づかない人が多いかもしれない。
それは、ホームドラマなどの食卓シーンで、何故か観客に背を向けている人がいない…のを当たり前のように刷り込まれているせいだろうと思うが、映画ではなかなか見られない(映画は、セリフを言う人が正面になるよう、いちいちカットを割ることが多い)。

この不自然なシーンはもちろん演出なのだが、今泉監督作品では結構こういうシーンがある。

私がそれを知ったのは、記憶が曖昧なのだが、たぶん、映画監督の三宅唱氏の指摘ではなかったかと思う。

たしか、以前の拙稿『映画「街の上で」を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)』でも触れた、2018年の「TAMA CINEMA FORUM 第28回 映画祭」での今泉監督と三宅監督の対談で、その前に上映された『パンバス』について三宅監督が「みんな、アレ気づいた?」と客席に問うたのだと記憶しているのだが…

『パンバス』の最終盤、ドライブを終えて主人公・ふみを家まで送ってきた男・たもつ(山下健二郎(三代目 J Soul Brothers))は、「見せたいものがある」と、ふみの部屋に招かれる。
部屋には志田演じるふみの妹・二胡がいて、床に座っているたもつにお茶を出した後、自分も近くに座るのだが、ふみを入れて3人が見事に横一列に座っている(たもつの前に小さな座卓が置かれていて、ふみと二胡は座卓からはみ出ているのに、わざわざカップを持って横並びしている)。

その時、三宅監督は確か「普通しないよね」みたいなツッコミを入れたのだと思う。それに今泉監督が何と返したのかは思い出せない…

(ちなみに、『パンバス』でお気に入りなのは「パジャマシャツ」のシーンで、「パジャマってこれだから」とふみが突然パジャマ姿になったシーンは、それまで/それ以降にもない意表の突き方で思わず笑ってしまうのだが、これも余談)


本作のラストシーンで思った事…

「3枚目の絵陽」=「サンカヨウ」

…オヤジギャグ……(完全に自己嫌悪)……

(2021年10月20日。@シネ・リーブル池袋)



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