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自分の姿に悩むときは、生き方を考える時

私の中で洋服は、どんな自分でいたいかの味方をしてくれるものだった。

そう話して、とてもお洒落な人を想像されると困るのだが、
自分の姿を自分自身が好ましいと思える状態を、身に纏うものは作ってくれる。自分を見える形にするものと感じていたので、洋服選びを自分以外の誰かにまかせたいと思った事はなかった。

そんな私が、何を着たいかにピントがあわなくなってきた時に思ったのは、洋服選びというのは、生き方と密接にあるという事。

時代の流行がカジュアル化してきた事も、私が着てみたいと思うような洋服がすぐに見つけ出せない理由のひとつでもあったが、
着るものに悩むようになった時期は、子育てに悩み、自分自身の母としての在り方が間違いだったように感じはじめた時期でもあった。

ここ数年、自分自身を深掘りし、気が付いた事がある。

私は物事を考える時、
母として、人として子供たちに伝えるべきものをつたえているだろうか?
子供にとって有益な母だろうか?
子供に胸を張れる生き方をしているだろうか?
子供を守れる存在だろうか?
とにかく、『母として』という責任感のようなものが、考え方や、行動の根っこにあるという事。

だから、母として子供によかれと思って動いてきた事が、もしかしたら子供の生きる力を弱めているのかもしれないと考え始めていたその時期は、自分自身への信頼度も、自信も無くしつつあった。
そして着るものにもピントがあわないような時期ともリンクし、自分自身の存在もぼんやりしていた様に思う。

もし、今、これを子育てに悩むお母さんが読んでくれているとしたら、アドバイスとしてひとつだけはっきり言える事がある。

子供は心配しながら育てるべきではなく、ただただその子の生きる力を信じて見守るのが親がすべき事

ついつい、自分の生きてきた過程でマイナスに感じた部分を子供にはさせないようにと。
子供が生きて生きやすいと思う環境を作ってやりたいと手助けしたくなるが、そも気持ちをぐっと抑える事がなにより重要なことに思う。

過去にマイナスのように感じた事が今の自分を作っているのに、
それは決してマイナスではないという事を忘れがち。
悲しさや辛い感情のみを思い出し、そんな感情は体験させたくないと先走る。

子供の人生で起きる事は、すべて子供のものという事を見失いがち。
子供のためと思ってしている事であっても、実は自分のためにしている事が多かったりするものだ。

長女が小学5年生・長男が幼稚園・末っ子が2歳の年までは、東北の田舎町で子育てをしていた。
大阪に住むようになって、それまで暮らしてきた東北との気質の違い、言葉の響き方の違い、子育て環境の違いに、私はとても戸惑い、不安感ばかりが大きくなっていた。
子供達をこの地で生きて生きやすいように育てなくてはと、かなり張りつめた気持ちで子育てをしていたのだと思う。

健やかに育って欲しいと願っていたはずなのに、当時、子供たちは皆、苦しそうに生きていた。そんな姿にますます不安感をつのらせ、私に出来る事は何だろうかと模索ばかりしていた。

今の私だったら、
母として子供のために出来る一番の事は、おおらかに、にこやかに大丈夫だよと言い続ける事
頭でなく、心で実感しているが、その当時は私の心は心配ばかりしていた。

子供というものは母の感情を敏感に察知し、それを取り込んで育つものだと思う

中学生の息子が『僕はもう生きていたくはないんだ』と呟いた時に、衝撃を受けたのと同時に、この子を追い詰めているものの中に、私の心配する気持ちが含まれているのかもしれないと。
肝心の、生きていくことの喜びを息子に伝え忘れているのではないかと、とても悔やんだ。

私は、子供を心配する事をやめるべきなのかもしれない。
私が子供に見せるべきは、好きな事を楽しみながら生きていける姿ではないだろうか。

その当時も、好きな着物を着て仕事をしてはいたが、もっと心の底からその状況を楽しんで、それが仕事になっている状況にならないだろうか?

そんな時に、大好きな着物のコーディネートが仕事に繋がる資格と出会ったのだ。

何を着たらわからない?
そう悩むのは、自分の生き方を見つめ直し時なのかもしれない






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