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【エッセイ】私と、あなたのずれ。

こんばんは。


最近、ある記事がじわじわと伸びている。



簡単に言うと、
「どうすれば外部アクセスに反映されやすいか?」
を実証して、考察してみた記事。

自分の記事をたくさんの人が見てくれたこと。
なによりも届いたこと。
これはとても嬉しい。

ただ、これ以上伸びて欲しくない。
数字が増えるごとに、こんな気持ちが募っていく。


・・・


この記事をつくるにあたって、その前にあたる記事がある。



正直、この記事はあまり面白くない。

「考察」としては検証も、結論もあまり充実していないからだ。
その物足りなさから、あの記事を作った。


そして、この記事といっしょに書かれたものがある。



読者の方なら、この記事を知っているだろう。

noterとしての「私」を知ってもらうなら、これが1番分かりやすいからだ。

はじめて「書いた」実感のある文章。

現状一番スキが多いのはこれ。
できればこのままがいい。
そうあってほしい。


2記事のリンクは、あの記事に張り付けてある。
しかし、ビュー数も、スキも伸びていない。

他の記事を読んでもらう。
そこまで読者を引き込めていないのだ。


こうして、あの記事は伸びていく。
より多くの人に届く。
また数字が増える。

こうして、「私」を表現する記事が、あの記事にすり替わる。
それが不満、それよりも不安なのだ。


・・・


どの記事も、私の感情から生まれている。
「書きたい」という、ただ1つの動機で。

ただ、その中にも「つながり」がある。
上の3記事は、まさにそうなのだ。

「読まれる」と「伝える」
このずれが生まれた結果、今の状況が出来上がってしまったのだと思う。


こうして、「記事に書かれていること」だけが切り取られる。

「どうしてこの記事を書いたのか。」
「どんな気持ちでこの記事が書かれたのか。」
それが曖昧に受け取られてしまう。

今の私の「文章力」が足りていないのも事実。
読み手に文章の中の「私」を見てもらえない。

これが「書く」を複雑にするんだろうな、と実感した。


「人は、基本他人に興味ありません。」

この言葉に宿る意味が、ようやくわかった。

読み手が求めるのは、「どうしたら外部アクセスに反映されやすいか?」という情報だけ。
大半の人間にとって、それを書く意味も、理由も、どうでもいいのだ。


・・・


文章の中に潜む「人」を見ること。
その人のことを知るために、たくさん記事を読む。
それでも、数パーセントしか知ることはできない。
読み手の受け取り方次第では、そこにバイアスがかかる。

人の本意を「知る」のは、簡単じゃない。
たとえ文章であっても、それは変わらない。

それを文章で「伝える」ことができる。

これが「書き手」としてのゴールなのかもしれない。


文章って、やっぱり難しい。

今の「私」がそれを コントロール できていないのだから。


伝わらない。
伝えられない。

もどかしい。


あとがき
先日、この気持ちをXでちょこっとポストしてみたところ、ある方にアドバイスを頂きました。
勉強になりました。

…でも、やっぱり難しいです。





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