見出し画像

随筆(2020/5/19):明るい話をしたい。明るい物語を書きたい

1.結果的に相手を暗い気持ちにさせるような話を、毎回毎回しない

家族と、 人間のネガティブな側面の気付きや、疲れとか、忙しさとか、そういう話ばかりしがちだ。
こういうことをしていると、ユニコーン『すばらしい日々』のように、「暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ」という暗い気持ちになっていく。
少なくとも、家族全員を暗い気持ちにさせるために、家族と話したい訳ではなくて。
「時々は暗い気持ちを分け合って慰めて欲しい」というのと「自分と話したら、結果的に相手を暗い気持ちにさせる」というのは、当然違う。
後者ではいけない。そんな人とはやっとれんわ。

2.人生のネガティブなコクを巡る、イキりも説教も、避けたい

人生のコクがどうのこうのとか、もういいんだよなあ。
その面白さは、確かに人生の面白さだよ。
だが、そういうのに、やはり長く生きていた人間が、今更魅力を感じるか?
そんなもん、毎日、呼吸のように吸っている。今更、そんな話が、何だというのだ。
何なら、「今更気付いて、ドヤ顔で滔々と喋ってるやつ、アホちゃうか」、まである。
こんなイキるジャリの相手は、親心のある人でなくば、さぞや鬱陶しかろう。

あるいは、そういうのを、おっさんが、親心で、若い世代に伝えるなら、もっといいやり方があるようにも思う。
最低限、説教臭さは避けねばならない。
人生のコクを知識として得たい人というのは、いる。
だが、そうしたい人は、人生の知恵的な意味でザコ扱いされないために、人生の知恵的に強くなりたい訳だ。
ザコ扱いされたくないために強くなりたいんなら、強くなるためにザコ扱いされるの、当然ながら論外に決まってる。
「お前らザコに教えてやろう」というおっさんにザコ扱いされて、誰が「はいそうでございますか」と聞くと思うか?

イキりも説教も避けねばならない。

3.少なくとも、当面、明るい小説を書くよう、心がけたい

自分の今後書く小説のことを考える。
大昔、人々は焚火を囲んで話す時に、物語を語った。ここが、物語の始まりだ、とも言われる。

古代ギリシアの劇場ならともかく、人々が焚火を囲んで話すには、悲劇はあまり楽しくない代物であろう。
作る自分の中に、悲劇が好きなところは多々あるが、読む自分は、もうそれほどには悲劇を求めてはいない。
読む自分に正直になったら、自分の作品では、ちゃんと、楽しく終わろう。喜劇とかギャグとかお祭り騒ぎとか、ハッピーエンドとかを心がけよう。

悲劇のオチで、イキりや説教をやる人、いる。みっともない。
なので、悲劇をやること自体にも、かなり用心深さが必要だ。
私も、いったん、これに頼るのを、やめた方がいいのかもしれない。

4.英雄譚、ヒーローものの悲劇性を、読者が後味悪くないように、うまく臭み消ししたいなあ

私の書きたい小説は、まあ、ある種の英雄譚であり、ヒーローものなんですよ。
人間は等身大だが、人間の営みは人間を超えて大きい。
それをやる人は、超人であることを余儀なくされる。
それでも、彼らも人間なので、ギャップで苦しむ。そこにヒーローの悲劇性がある。
ただ、それだと、明るくない。人間の社交や処世で語られる話からはどんどん外れていく。
少なくとも、後味は、悪い。
ヒーローが、何らかの意味で喜劇的であるためには、どうすれば良いのだろうか。

キリストの死後の復活は蛇足ではない。ちゃんとハッピーエンドがあることで、人々が焚火を囲んで話すに足るようになる。
そういうことを、自分も心がけよう。悲しい結末病を避けていこう。

そんなところですね。これは宿題です。いつの日か、やっていきましょう。

応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。