随筆(2020/1/3):『自罰の呪いで成長する人と、その破滅』3_1-3_3(「自罰の呪い」を問題解決に使ってきたあなたは、とにもかくにも猛烈に立派である他)

3.呪い呪われた自分を、二泊三日温泉旅行に連れていく

3_1.「自罰の呪い」がデメリットだけをもたらすただの「呪い」になる場合もある

「自罰の呪い」、呪わしいものですが、「自分は悪い、これではいけない、悪いところを直そう」という問題解決の回路と整合的である限り、それそのものはメリットがあります。

ただ、「自分は悪い、もうダメだ、もう何も出来ない、もうどうでもいい、さっさと〇せよ」というパターンがあるから、それになってない場合に限るのですが…

何も出来ない、気分が萎える、やる気が出ないという場合、当然ながら改善なんか到底無理な話です。
そうなると、「自罰の呪い」は、デメリットをもたらす、ただの呪わしいものになってしまいます。
(じゃあ今までの話は何だったんだ)(気分を萎えさせるモードになってないならちゃんと効き目があるんですよ。気分を萎えさせるモードになっているならダメだという話よ)

***

ということで、無力感との戦いは、別に要ります。
根本的には
「しっかり食ってしっかり寝て心身のリソースを貯めていく」
「必ず余裕が出来るようなライフサイクルを守る」
「余裕がなくなるようなことを考えない」(ここで「自罰の呪い」が悪く働く)
「やれることを少しずつ熟練して増やしていく」

ということです。

この最中も、やはり「自罰の呪い」は、デメリットが大きい。
「お前、食っちゃ寝してんじゃねえぞ、あれをやれこれをやれ、できなかろうがやれ、しないのなら〇ね、何も作れないなら〇ね、何も残せないなら〇ね」
というのは、精神的余裕をものすごく削る。ダメ。

3_2.「自罰の呪い」を問題解決に使ってきたあなたは、とにもかくにも猛烈に立派である

さて、ここからマジな話をします。
「自罰の呪い」で、「自分は悪い、これではいけない、悪いところを直そう」という問題解決をしてきたこと自体、猛烈に立派なことです。
問題解決をしようとして、自分の性格をも問題解決に組み込んだ人、そりゃあ偉いに決まってる。
そういう姿勢があなたを、問題に直面しても切り抜けて、今まで生きていられるようにしてきたのだから。

3_3.「必勝法病」は、試行錯誤をしなければならない時に、窒息死をもたらす

他の人たちは、あなたのそういう姿勢を、別に褒めないでしょう。
そりゃそうだ。彼らはふつうは成果だけしか見ない。だって人は、光学的に見える物体等しか見えないんだからな。そして成果とはたいていそういうものだ。
成果に結びついていない、気に入らないので捨てた結果や、それに費やされたいかなる実践も準備もリソースも、彼らにとってはことごとくゴミだ。

こうなると、
「成果に結びつかない結果も実践も準備もリソースもゼロにしたい、それらは成果に結び付くものだけに費やしたい」
という、詰んだ思考になります。
私はこれを「必勝法病」と命名しました(今)。

***

余裕のない時はこれしか出来ないでしょう。そりゃもちろんそうだよ。失敗したら全部すっからかんになって〇ぬ場合だってあるんだから。

だが、これ、ものすごい罠が潜んでいるんです。要するに、長期的には試行錯誤が出来なくなる。という、とてつもない副作用が。

基本的に、未知の有害な問題が発生した時に、既知の解決が利かない、頼りにならない、信頼性を欠く、ということは、いくらでもありうる。
そうであれば、膨大な数の未知の解決案を、試行錯誤でやっていくしかない。これは避けられない。
もし、何らかの理由で、この手の問題に対して試行錯誤をしないのであれば、それらは永遠に解決できなくなり、その害を〇ぬまで食らうことになり、〇ぬ。

もちろん、個人の話だけをすれば、「当面は試行錯誤をやる余裕もない」のなら、「すっこんでいる」「食っちゃ寝をして心身を養う」というのが最重要だ。
今のところ日本は平和だ。それがかなりの確率で許されている状況だろう。少なくとも、右も左も分からないまま、少年兵にされなくて、本当によかったですよね。
厳しい自然環境から離れて、苗代を育てることは、もちろん大事なことだ。そうやって保護することで、育ち方、学ぶ力、人生で人生をやっていくスキルに、かなり大きな影響がある。

だが、暴風雨が苗代を襲撃したりしたら、そうも言ってられなくなる。これは、最悪の事態だが、時々ある。
(これを最悪だと思っておらず、挙句「鍛えるため」に人為的に起こす人は、人を育てないで欲しいのだが。
「鍛える」フェーズになる前の人に「鍛える」ことをしてる時点で、もう何もかも見えてないし、何をしてもダメでは?)

そうなると、受動的な話にはなるが、試行錯誤待ったなしだ。
(受動的に試行錯誤を余儀なくされるの、相当最悪度の高い状況ではありますが、なっちゃったらそりゃあやるしかない

また、もちろん、いつかは育った苗を、ちゃんと田畑に植えなきゃならん。そこはしばしば厳しい自然環境だったりする。
「自分がやんなきゃならん、出来るようにしたい」と思うのなら、厳しい自然環境には、いずれ直面しなければならない。
これは、能動的に、試行錯誤をやる、という話でもある。

***

「そんな非効率的なことは出来ない。そんなものは、例え実際に効き目があったのだとしても、例えやり方が確立されたとしても、何ら問題解決ではない」
という考え方、よくないですよ。出来ていたら、それは出来ているんだ。品質や効率はまた後で考えるんだよ。
最終的に品質や効率が悪すぎて採用できない解決法、もちろんあるよ。
だが、それを言い出すと、利かない、頼りにならない、信頼性を欠く場合、既知の解決法というやつ、どう考えても「試行錯誤未満の値打ちしかない」という話にしかならなくないですか。

そんな訳で、品質や効率の話をする時に、既知の解決方法が、むしろダメであること、しょっちゅうある。
「あらかじめリソースやを直ちに用意出来るようにしておくという効き目がある、どんなときでもリソースだぞ」みたいな、間接的には効き目がある話ならまだ分かる。
そうでないなら、「既知」であることは何ら「有用性」「低コスト」「高信頼性」を意味しない。
むしろ、その手段が「無駄」であることを、単に「既知」であるというだけで、「安心」して「思考停止」する、「誤魔化す」ように働く。
それは「楽」だが、「楽」であれば解決出来るという話にはならない。問題解決のフェーズでは、「楽」であることよりも、解決に寄与することの方が、はるかに大事に決まってる。

***

そういう時になったら、「試行錯誤そのものが下らない」という発想は、もう捨てなきゃならん。
「状況に効果のある才能を持っているか」が先で、「その才能は成果にどれだけの品質をもたらすか」は後だ。「その才能は成果をもたらす際に効率的か」は、さらにその後になる。
品質や効率を理由に、才能があろうがやらない、というのをどこまでも貫いていたら、降りかかる火の粉は何一つ振り払えないだろう。
危機的状況においては、足掻いて生き残ることが、全てに優先する。死んだら終わりだ。当たり前だけど。
クオリティがどうのエレガントがこうの、ずいぶんとお貴族様なことを言ってるが、そんなの関係ねえ。

***

そして、実践試行錯誤を重ねてきたあなたは、
「成果に結びついていない、気に入らないので捨てた結果や、それに費やされたいかなる実践も準備もリソースも、ことごとくゴミだ」
という話も、
「成果に結びつかない結果も実践も準備もリソースもゼロにしたい、それらは成果に結び付くものだけに費やしたい」
という話も、まるでバカみたいにしか聞こえなくなるでしょう。
「自分で実践したことのないお貴族様やインテリ殿の言いそうなことだ」
くらいのことは思うかもしれません。

そうなんですよ。「成果だけしか見ない」というのは、実はものすごくみっともないことなんです。
基本的に、客が現場より詳しい訳はないから、そこはしょうがないし、それでも納品は行われるものだ。
だが、じゃあせめて、納品のために行われるありとあらゆるプロセスは妨げないで欲しいんですよ。
納品のために行われるありとあらゆるプロセスを、何らかの形で妨げようとしながら、納品をさせようとする客、何かよう分からんけど、割と、います。
控えめに言って、邪魔。

そういうことをすると、
「私は目利きの悪いバカで無能なので、納品さえされれば、現場がサクリファイスされようが、知ったことか、と思ってます。それでも私はお客様であり神様だ。いいから納品のために現場を焼け」
と悪意をもって解釈される可能性がかなり高いから、本当に用心した方がいいですよ。
こんなことを言う人、次からは客じゃないんだからな。そんなやつの発注してくる仕事を請けていたら、仕事組織が壊れるし、どんどん仕事が出来なくなる。儲けも少ない。じゃあ請けたくないぞ。
(シブチン客である役所の中の人がこれを言うの、口幅ったいにもほどがあるんだけど、言わせてもらいますよ。公僕をやる前は俺は業者だったんでな)

安心して、気力体力を養い、品質と効率の良い解決方法を学び、それでもダメなら、試行錯誤しましょう。
ここでとやかく言う人、無視しましょう。

(続きは、また明日にします)

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