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随筆(2020/8/10):公正と正義と法を、単純な直線上に並べられるが如く扱うの、納得いかない(2)社会保障制度や自由は、公正関連概念とはだいぶ距離がある

3.公正関連概念と、法的に考慮されるべきその他の倫理的価値は、距離がある

a.(所有する資源の変動全般における)公正

他者の働きかけによる、何らかの形での、所有する資源の変動全般について、報酬や報復の比率が非負であること。
(報復については、後でa2.という形で記述があるが、ここでは書かない)

a1.(広義の投資における)公正

他者から勧められた、何らかの(広義の)投資について、資源投入に対する報酬の比率が非負であること。
「努力したら報われる」等。
c2.を含意しない。

b.(資源配分全般における)公平=衡平

資源やその利用機会の分布、あるいはその配分原理が正当であること。

b1.(特に報酬における)公平=衡平

誰かから渡される、資源投入に対する報酬の分配の比率が、平等であること。
a.とc2.によって構成される概念であり、c1.やc3.と整合しない。

b2.(特に富の再分配における)公平=衡平

指数的格差による不自由があるときに、不自由な当事者が納得の行く程度の自由を回復出来る水準まで、資源を指数的に取り返すこと。
c3.によって構成される概念であり、a.やc1.やc2.と整合しない。

c.(当該記事に限り、資源分配全般における)平等

ここでは、特に資源配分における、さまざまな形態の平等のことを、限定的に意味する。

c1.量的平等

全員に同じものを同じだけ給付すること。
資源投入を前提としない。
事態が簡単ならそれでもいいが、事態が複雑である場合、これでうまくいくことはまずない。

c2:比率的平等

報酬の分配の比率が、平等であること。
資源投入を前提とする。
a.を含意しない。
資源投入出来ないほど不自由な人相手に、これでうまくいくことはまずない。

c3:指数的格差是正

指数的格差を、指数的に取り返すこと。
「累進課税制度」等。
資源投入を前提としない。
福祉等の社会保障制度での公平感をもたらす。
指数的状況以外ではうまくいかない。

3.0.つまり、「公正関連概念」という単一統合概念などというものは成り立たない

事程左様に、公正と言う概念には、実際には少なくとも6つの意味が、それも混同されて使われているように見えます。(後で7つ目の話もします)
このうちのいくつかは他のものと独立であり、場合によっては両立出来ません。

さて、それをひっくるめて、「公正関連概念」と呼ぶことにしたとしましょう。
ひっくるめているので、使い分けが出来ないまま、不適正な使い方をする。
それでも、これをあたかも単一統合概念として、なお万能であるがごとく扱う。
これは、もちろん、まずい。
こんな混同は避けねばならないし、両立しないものに関しては、きちんと峻別しなければならない。

じゃあ、「どれの話をしているのか」ということが、公正の話をする際には、その都度問われてくることになるでしょう。

3.1.社会保障制度は、公正関連概念のうち、富の再分配における公平と、その構成要素である指数的格差是正にのみ関わる

通常の、b1.の意味での「公平=衡平」という言葉が構成要素として含む、c2.の意味での「比率的平等」。
だが、まあ、前回も書いたんですが、実は福祉等の社会保障制度と衝突してしまうんですよね。

「法レベルの福祉は富の再分配を含む。
それは累進課税制度で実現される。
これは「指数的なもの」である。
つまり「比率」とは基本的に相容れない。
で、当然、それを公正と考えない人がいる。
公正以外の理屈を持ってこないと、実は揉める」

という話がある訳です。

3.2.自由は、公正関連概念のうち、広義の投資における公正と、特に報酬における公平と、比率的平等を、基本的には損なう

また、広義の投資における公正と、特に報酬における公平と、比率的平等は、こちらは自由と衝突する。
なぜか。
報酬を払うことを「要は強いている」時点で、自由でも何でもない。という話は避けられないからだ。

***

え?
「それは自由ではなく、やりたいことをやるだけの、恣意の話だろ?」
ええー?

ふつうの人は、
「恣意が自由の核心だ」
という認識を持っている。

「やりたいことが出来ない自由は、制限された自由で、自由を削られた形だ。
それを自由と呼ぶのは、そうしないと社会生活で困るからだ。
自由は素晴らしいが、自由だけでは社会生活は出来ないから、制限はされてもやむを得ないかも知れない。
しかし、少なくとも、本当はこれは、自由の素晴らしさを全面的に採用した在り方ではない」

そういう直感と、大幅に齟齬がある理念としての、自由の話をしているように見える。
「齟齬があろうが、定義がそうなんだから」?
それは再定義した学者の都合だろ。(誰だったっけ。JSミルか?)

自由から、核心としての恣意の要素を抜こうとする人、それは綺麗事ですよ。
そういう不誠実、ダメですよ。ちゃんと見なきゃならん時には、そんなんじゃ困るんです。見えなくなっちゃうよ。

***

ここは
「自分の行為に対して周囲から異議申し立てがあった場合の応答責任」

「周囲からの要求への自分の同意」
で接着できる。

が、この三つは当然イコールではない。
ここは誤魔化すことは出来ないし、どうでもいいところではない。
加工されていない、恣意としての自由は、応答責任も同意も必要としていない。
逆に、応答責任や同意は、恣意に対して、負のフィードバックをかける手段だ。
それらのものが、同一な訳がないやろ。

これらをセットにした加工済みのもの「こそが」自由であると呼びたがる人、かなりいる。
現に、脳の価値観や感性と、法の理念とで、用法が乖離しているんだよな。
せめて、そのくらいは、ちゃんと認めなきゃならん。

そんな訳で、

「「自由」と「恣意」は違います。バカじゃないの」

というよくあるドグマについては、

「それは、「恣意」とそれ以外が接着済みであるような、加工された「自由」の話でしょう。
この理屈を言い出した人、これらを接着した加工済概念を「自由」だということにしないと、実はうまく法が成り立たないことを予測出来ていたから、そこはそういう風に再定義したんじゃないんですか。
で、あなた方が「バカ」と呼んでいる人たちにとっては、そういうの接着していない、「恣意」こそが、「自由」と言う言葉の響きにより近いんですよね。
ローカルルール的に再定義した側はともかく、あなた方が「バカ」と呼んでいる人たちは、そんな再定義なんか知ったこっちゃねーんだよな

という回答が、一番誠実であるように思える。

***

で、もちろん、こういう手品のような接着をしない限り、日本国民法、特に債権編は、限定的にしか成り立たなくなってしまうだろう。
そんなんじゃ困るんだよね。
恣意的な自由だと、どう考えても、公正取引はメチャクチャになるんだから。

***

さて、その上で。
「公正と売り引きを妨げる、そんな自由、最初から、『要らん』ということにするのか?」
そういう話を突き付けられたら、どうするの?

少なくとも、本当に公正ということだけが、真に大事であるのなら、
「接着剤抜きの自由、要素としてすら、要らん」
と言う話にしかなんないじゃん。
だって、公正取引を破壊する要素なんか、公正の立場からは、採用出来る訳ないだろう。

そうじゃない?
「公正以外にも自由は重要であり、接着してでも採用する」
まあそうだろうね。そういうことは実践上は強く要請されてくるだろう。

じゃあ、

「公正と接着された自由のことを、きちんと明記しろや。
そちらは自由のことなんかどうだっていいんだろうが、実践上はそうはいかないんだからな」

とは、そりゃあ、まあ、なりますよ。当たり前じゃん…

(続きます)

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