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随筆(2020/10/2):発達障害者には『的外れでも死なない』のマインドがとても大事(5.まともな質疑応答を成り立たせるために、正直であることは、信頼の下地に効いたり効かなかったりする)

3_4_2.言葉の誠実さでなく、行動の親切が積み重なって、初めて得られる類いの信頼もある。言葉の誠実さは、そうした信頼の後でやりましょう

さて、発達障害者がよく過つところとして、
「信頼はまず誠実さからもたらされる」
という教義(ドグマ)があります。

これ、自然信仰みたいなもので、かなりごく自然に生ずるものですが、実際にはまるでそうではない。
これについては、発達障害者の、少なくない人が、痛い目見てるところでしょう。

それは、ある条件を満たさないと、成り立たない回路です。
満たすとこれでも回るので、ついこれに頼ってしまいますが、本当はこれでは頼りになりません。
条件が分かっていればある程度の再現性があるが、そうでないなら、頼りになる訳がない。

突き詰めれば、誠実な言動で信頼を結ぶよりも、まずは、信頼を結んでから、誠実な言動をしなきゃならない。

どういうことか。

***

「誠実さ」とは、たいていの場合、「人が人に対して誠実であること」です。

「物や事が現にそうである。そこに嘘偽りはない」
という観測レベルの誠実さもあります。
が、今回の話のテーマ
「質問したら誠実に回答されなかった」
というところにあるので、相手方の人は、いる。という前提で話をしています。
なお、
「今ある物や事ではなく、将来やる行為について語り、将来実際にやる」
という類いの誠実さがあり、これが
「人が人に対して誠実であること」
の要になります。
前者のような、観測レベルの誠実さでは、足りないのです。

で、もちろんこれらには、
「相手にとって不愉快な物事を、不愉快でないような、綺麗な言い回しで伝える。オブラートに包む」
みたいな、綺麗事の徳なり親切の徳なりは、含まれておりません。
ちなみに、綺麗事の徳礼儀作法と整合的な挨拶等に、親切の徳はもちろん親切の中に、多く含まれています。
(だからこれらをやっておくことには意味があるのです)

どちらもしなかった場合、相手の感じ方の緩衝材として効いて来る綺麗事の徳や、コミュニケーション上の相手への緩衝材として効いて来る親切の徳メリットは、当然得られません。
つまり?
相手誠実の徳を、
「殊更不愉快な物事を、他人に向けて言葉に乗せて直球でデッドボールさせて嬉々とする、品性劣悪な邪悪生物の邪悪行動」
と認識していく訳です。

これは、もちろん、マズイ。
やってる側にそんな意図はない。そんなつもりはない。
だが、傍から見たら、こうなるの、ごく当たり前でしょうね。
「「相手を害しよう」という悪意があって意図的にやっているのでなく、そういうの抜きで、それでも相手の害になるようなことをやりたい」?
こんなもん、
「そもそも品性が劣悪だ」
という話になっても、何一つ文句なんか言えないんじゃあないんですか。

「相手の害になる真実は、害であろうが何だろうが、善い事である」?
それは、
「自分の準拠する誠実の徳をもって、常に、相手の親切の徳と綺麗事の徳を蹂躙してよい」
という形を、現に取っているわけだ。
そりゃあ、自分に、親切の徳と綺麗事の徳が向けられることはなくなる。
自分への言い回しは、いつもの自分のやり口と同じように、塩対応になる。
自分の感じ方は、いつも自分が相手の感じ方を考慮しない程度には、考慮されない。
今正にそうなっているのではないか?
俺もこの手のことをずーっとやってた手合いです。だから分かる。これは、ふつう、こうなってしまいます。避けがたく。

(下の画像で言うと「言葉のデッドボール」現象ですね。
まあオンナスキー(メガネ)はファーザー(怪人)の妄言にさんざん振り回されているので、塩対応、当たり前だけど…)

***

そんな訳で、正直な塩対応の無礼者は、受け入れる相手が余程の傑物良い子でない限り、「実際に」、受け入れられていない訳です。
受け入れられていないんだから、少なくとも人間関係のフェーズでは、これは信頼される云々以前の問題だ。まともに扱われていない。
ここは、厳しい気持ちになってくるが、認めなければならない。

「こうであるべきだ」という規範的な話と、「こうである」という記述的な話は、当然な訳です。
現実で何かをやっていく時に、前者が光り輝いているように見えるが、後者を全無視していたら、実際には何もかもやれないままであろう。
そういうの、困る。

***

さて、「人に対する誠実さ」には、発言の部分と、行動の部分があります。
要するに、約束約束事として機能する発言においては、言動は一致していないといけない訳です。
実際に見た物事を表現するのとは違い、未だに行われていない行動は、いつか現実に行われなければならない訳です。
だって、まだ、ないんだから。ないままだったら、それは嘘つきになっちゃう。じゃあ、有らしめねばならない。
そういうことをキッチリとやろうとするやつかどうかが、大いに問われている。
(ちなみに、これは意図の話なので、結果として失敗しても、誠意が明らかなら、許される場合は案外しばしばあります。
奇妙に見えるかもしれませんが、そいつはまたやって、いつかはちゃんと別のところで結果を残すだろう。それなら、まあ、いいんですよ。
で、そういう意図がなかったら、リソースだけふんだくってデタラメな結果しか残さないやつになる。そんなやつ、信じたくないですよね

***

要請に応じて、親切な行動をしているとする。
それは最初は親切の徳でやっていたことでしょうが、そのうち後で発言した時に、その言葉の誠実さを担保するだけの下地になります。
「日頃の行いから、こいつがこう言ったからには、実際に結果的に約束は守るだろう」
信頼されているかどうかは、
「人に対する誠実さ」
において、決定的に重要です。
そういうことをして、初めて言葉の誠実さに値打ちが出て来る。

というか、そういう信頼が得られるまでは、言葉の誠実さは、口先人間の口先三寸と、何ら区別がつかないであろう。
その話が真実であることを証明するために、身の証を立てろ。
という話は、たいていどこにでもついてきます。

だから、「そういうこと」を「しましょう」。
行動人と人との誠実につながるのであって、発言その後の決済手形に過ぎない。
ここは間違えてはいけない。気を付けて下さい。

(続く)

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