百七十八話 緊迫
電車に乗る。
車内は案外空いていた。浅井はホッと一安心する。
この二年四ヶ月、同じ軍服を一度もまともに洗濯せず、着通していた。そのため、自分では判らぬもの、恐らく凄まじい悪臭を放っている。
時に軍服は人糞に塗れた。そして、その糞が溶解し、班で問題なった。そんないわく付きの物なのだ。
当時も自分の臭いは自分では判らなかった。それを身を以って学んでいた浅井だけに、満員電車を警戒するのは当然と言えば当然だった。
車窓から外を眺める。山手線沿いの工場も全焼していた。
折れた水道管から、水が流れっ放しになっている。その水飛沫に日光が当たり輝いているが、それが尚更痛々しい。
一方、車窓から見える何気ない光景に、自由がどんなに大切で貴重であるかを思い知らされもした。
感慨と若干の緊張――ひしひしと身に感じ、五反田駅で降りる。
白木屋の四階から出る池上線――そこに向かうまでの一帯が全部焼け跡になっている。
古いトタン板を集めて作った小屋が見える。傍に立てた棒に紐を掛け、白いワイシャツなどを干している。
風に靡く洗濯物――健気で実に痛々しい。
目黒川を西に遡ると東横線中目黒のホームが見える。
辺り一帯、半分くらいの家が焼けている。被災を免れた銭湯の煙突と質屋の白い土蔵がやけに目立つ。
青と赤が混ざった博多駅の被災地図を思い出した。
ホントにあの地図の通りだな・・・浅井はそう思いながら歩を進めた。
池上線に乗る。電車は次の大崎駅には停まったが、その次の桐ケ谷駅には停まらなかった。
桐ケ谷駅は爆弾投下に遭ったらしく、コンクリートのホームが粉々に粉砕されている。その塊が累々と山積みされ、すっかり廃駅になっていた。
次は戸越銀座――浅井が工場に行くため降りる駅である。
「停車するだろうか・・・」
不安が募った。
電車は廃駅となった桐ケ谷駅を通過し、進む。
戸越銀座駅には無事停まった。
果たして、その先の工場が無事かどうか・・・浅井は緊迫の刻を過ごしていた。
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