【雑記】孤独はどこからくるのか

孤独を感じる時、孤独はどこからくるのか。その感覚自体は内発的な緊張感に他ならない。だが身体が何か変わったわけではない。その起点は自分がそう感じてしまうこととメッセージを受け取る場合がある。

例えば何かしらの交流会やパーティーがあったとして、多くの人がペアやグループを作って話しているのに自分だけ蚊帳の外にいる感覚になる。緊張感が走る。なんとか輪に入ろうと声を掛けようと試みる。受け入れてくれるかという不安と向き合う。自然に人が集まる人間もいれば、全く無関心の人間もいる。これらの事態が引き起こす孤独とはなんだろうか。

そして実はたまたまこちらが気にしすぎて、あるいはあちらが気にしておらずに勝手に嫌われたのではとか考えてしまい孤独を感じる時もある。もう一つ、意図的に「仲間はずれ」であることを伝える行動様式も存在する。いない・関係ない体で扱ったり、声に出して「来るな」「近寄るな」と発信する。発話はまだ納得がいくが、声に出さない象徴性(自分の名前がないだとか、呼ばれていないだとか)はもっと辛い。なぜなのかわからないし、どうすればよいかもわからないからだ。

そうなると友人とは親友とは知り合いとは交友関係とはという疑問へと広がる。相手が覚えているかどうかの不安。知っているはずなのに無視することへの不安。憶測が憶測を呼び、絶望は孤独を呼ぶ。

これへの最も簡単な対処が割り切ること・逃避することである。こちらから積極的に話さなければ嫌われることもない。そもそも対人関係が悩みを生み出しているのだから対人関係を断てば良いのだ。これが現代人の基本的な態度だと思う。一方で嫌われてもなお、不安にあってもなお、孤独と付き合い積極的に関わる人もいる。

現象自体は当人の感覚の上に成立している。だが他者との関わりもまた存在する。しかしひとつ大事なことがある。自分がどうしたいかという行動は自分にしか操れないということだ。他者がなんか言おうと身体機能が停止するわけではない。象徴性に反応した心身の機能である。また自分の行動も生理的行動にすぎない。たとえ誰になんと言われようと、自分がしたいことを離してはならない。

といっても、仲の良い輪の中に入るのは怖いし、自然でありたいのに取り繕うのも疲れる。だから対人関係は大変である。将来性・計画性を見越した下心なんかはかき消し、その場を楽しむことに集中すれば良いのではと思う(対人関係の計画性も考察できると思う、いかにして人に気に入られるかなど)。

孤独の問題は根深い。存在していないことへの不安や存在している他者間への嫉妬でもあると思う。だからこそ日常に偏在する。今後丁寧に考えていきたい。

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