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TVアニメ『東京24区』が謳い上げた市民的公共性の価値:前門のトロッコ問題、後門の神がかり的「美少女」礼賛

はじめに

道徳をめぐる考察は孤独な作業ではなく、社会全体で取り組むべき試みなのである。それには対話者――友人、隣人、同僚、同郷の市民など――が必要になる。ときにはそうした対話者が実在せず、想像上の存在のこともある。自問自答する場合などがそうだ。しかし、われわれは内省だけによって正義の意味や最善の生き方を発見することはできない。

(マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう:
いまを生き延びるための哲学』早川書房、2010年、41-42頁)

 2022年4月に放送が終了したTVアニメ『東京24区』はいまどき珍しく、熟議民主主義的な話し合いの方向を指し示す作品であった。
 2022年1月期は、CloverWorksが制作するTVアニメが3タイトル同時に――『その着せ替え人形ビスク・ドールは恋をする』、『あけちゃんのセーラー服』、そして『東京24区』――放送されていたクールであった。『着せ恋』と『明日ちゃん』が作画から心情描写にいたるまで、多くの視聴者から熱狂的な称賛を浴びた一方で、『東京24区』は冬季のCloverWorks三大巨頭の一角を占めることなく、静かに幕を下ろした。そんな『東京24区』はニトロプラスの下倉バイオがシリーズ構成・脚本を務めたオリジナルTVアニメーションだ(下倉は本作でアニメ初挑戦)。本作では、東京湾に浮かぶ人工島・極東法令外特別地区(通称24区)を舞台として、民主主義と道徳感情をめぐる思考実験が繰り広げられる。本作のキーワードは「トロッコ問題」(the trolley problem)である。トロッコ問題は1967年にイギリスで考案された思考実験で、次のように定式化される(その他、様々なヴァージョンが考案されているが、本稿では仔細は省略する)。

暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと、電車は5人全員をひき殺してしまう(5人は何らかの理由で線路から逃げることができない)。一方、もしも電車の進行方向を変えて退避線(原文ママ)に向ければ、そこにいる1人の人間をひき殺すだけですむ。さて、路面電車の運転手はそのまま何もせず5人の作業員に突っ込むべきか、それとも向きを変えて1人の人間をひき殺すべきか?

(トーマス・カスカート(小川仁志監訳/高橋璃子訳)『「正義」は決められるのか?:
トロッコ問題で考える哲学入門』かんき出版、2015年、9頁)

 本作で描かれるのは、三人の主人公――あおシュウタあかラン翠堂すいどうコウキ――が24区で次々に提示されるトロッコ問題に翻弄されるさまだ。三人は最初こそ協力してトロッコ問題の二択から外れた第三の未来をこじ開けることに成功するが、徐々に各人の利害や選好が対立するようになり、犠牲者ゼロを実現できなくなっていく。それにとどまらず、トロッコ問題は政治家や利益団体の思惑によって政治的色彩を強め、24区の住民のあいだに分断を生み、24区を統治するシステムの正統性に疑問を呈する運動へと飛び火していくことになる。
 このような説明だけでは、本作がトロッコ問題を題材に選んだ賢しらなポリティカル・フィクションのように見えても不思議ではない(現に筆者も視聴前はそのような先入観を抱いていた)。しかし、後述するように、本作の特色はいかにも賢しらな設定を積み重ねながらもそれを十分に活かしきれず、「美少女」の力を借りて強引に大団円を迎えさせた点に認められるのだ。本稿は、本作において提示されたトロッコ問題を順序立てて検討しつつ、市民的公共性を擁護するために「美少女」が持ち出された意味を論じるものである。

アニメ的幕開けと功利主義的判断の失敗

 「三人揃えば不可能はない」――RGBの三人は発想力・行動力・能力いずれの点でも優れた24区最強のトリオだ。タカラ商店街のパン屋「蒼生ベーカリー」の息子、蒼生シュウタ(CV: 榎木淳弥)。グラフィティを手掛けるアーティスト集団「DoRedドレッド」のリーダー、朱城ラン(CV: 内田雄馬)。翠堂財閥の御曹司で区長の父を持つ、翠堂コウキ(CV: 石川界人)。幼馴染の三人は名字に含まれた色(及びアニメ的髪色)にちなんで、コウキの妹・アスミ(CV: 石見舞菜香)からRGB(Red, Green, Blue)と名付けられ、その呼称が定着して現在にいたっている。そんなRGBが活躍する本作は、次のようなナレーションで幕を開ける。

東京湾に浮かぶ人工島、極東法令外特別地区、通称24区。戦後、連合国が統治したこの島は、その特殊な立場ゆえ、アジア有数の危険な歓楽街として名を馳せることとなる。治安回復を名目に、日本に返還されることが決まって20年余り、長い移行期間を経て、正式に東京へと組み入れられようとしていた。しかし、とある事件をきっかけに、大きく方向転換されることとなる。

(第1話より)

 「とある事件」とは、宝小学校火災事件という痛ましい惨禍のことを指す。24区では、廃校となった学び舎・宝小学校をウォールペインティングで埋め尽くし、歴史的建造物として保存する計画が着々と進められていた。しかし、子供たちの作業中に漏電を原因とする火災が発生し、建物の崩落により死傷者が出てしまう。そこには保存計画の中心人物であったアスミも含まれていた。RGBの三人はアスミの事故死に深く傷つき、かすがいを失った彼らは徐々に疎遠になっていった。とりわけ、アスミを事故現場から助けられなかったシュウタの傷は深く、彼は街を守るご当地ヒーロー「Mr. 24」としての活動を中止した。
 愛娘を失った区長・翠堂豪理(CV: 楠大典)は二度とこのような惨禍が起こらないよう、宝小学校火災事件の放火魔を捏造し、ハザードキャストと呼ばれるシステムを24区に導入した。これは住民の携帯端末や監視カメラから集められたデータをもとに犯罪・事故・異常気象などを予測するシステムであり、犯罪の未然防止や早期摘発に資するとの触れ込みで広く利用されるようになった。そして、24区の治安維持を担うのが外地警備隊(通称ガイケイ)である。ガイケイは国連軍の治安維持部隊をその前身とし、翠堂財閥から資金提供を受けた半官半民の組織として運用されている。このように、24区の住民はプライバシーを犠牲にすることで一定の安全・安心を享受しており、まさに「自由か、さもなくば幸福か」(大屋雄裕)という定式を体現していると言える。
 さて、アスミの死から一年が経過し、RGBの三人は宝小学校火災事件一周年追悼ミサの場で再会することになる。この再会をきっかけに、物語は大きく動き出す。死んだはずのアスミから、三人の携帯電話に一斉に電話がかかってきたのである。その電話をとった瞬間、三人はトロッコ問題の形式で未来のヴィジョンを見せられるとともに、一時的に身体能力が著しく向上、思考速度は加速し、他人の感情を予測・操作できるようになる。

 三人に提示された第一のトロッコ問題は次のとおりである。

■第一のトロッコ問題(第1話)
状況】
制御を外れて暴走する特急キズナ号の前方に女性と犬がうずくまっている(キズナ号は無人・遠隔運転であり、駅に着くまで止まらない)
選択肢①】
進行方向を切り替えてキズナ号を脱線させ、乗客150人を犠牲にする
選択肢②】
線路上で立ち往生する女性一人を犠牲にする

 未来のヴィジョンに写った女性と犬が幼馴染の櫻木まり(CV: 牧野由依)とその愛犬デイジーであることを見て取った三人は、協力して乗客・まりの双方を救おうと尽力する。コウキは前もってデイジーの首輪に発信機をつけておき、まりとデイジーの居場所を把握できるようにしたうえで、父の豪理に掛け合ってキズナ号の進行方向切り替えを防いだ。ランはハッキングとドローン操作により、キズナ号のフロントガラスに塗料を吹き付けて、緊急停止ブレーキを作動させた。そして、シュウタがキズナ号より速く走って、線路上のまりとデイジーを救った。こうして三人の協力により、どちらの選択肢でもない第三の未来が開かれたが、これは電車より速く走ることができたりする超人のみが実現できるアニメ的解決策にすぎない。「超人的な能力の持ち主だったら話は別ですよ。電車を持ち上げたり、線路を曲げたりと、漫画ならそういう解決策はいくらでも出てきます」というわけだ(カスカート『「正義」は決められるのか?』、138頁)。だが、実際のトロッコ問題において普通の人間ができることは限られている。政治哲学者のマイケル・サンデルが言うように、トロッコ問題を考察する際には不測の事態を脇に置かなければならない。

路面電車の物語のような架空の例では、われわれが実生活で出会う選択につきものの不確実な要素は取り除かれている。ハンドルを切らなければ――あるいは男を突き落とさなければ――何人死ぬかが確実にわかっているとされているのだ。そのため、こうした物語は行動指針としては不完全である。だがいっぽうで、道徳的分析の手段としては有用なものとなっている。不測の事態――「作業員が路面電車に気づいて跳びのいたとしたら?」――を脇に置くことによって、問題となる道徳的原理を分離し、その力を検証するのに役立つのである。

(サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、35頁)

 本作は「そんなことわかっているよ」と言わんばかりに、「超人的な能力」をもってしても犠牲者が出ることを避けられない状況にRGBの三人を追い込んでいく。第二のトロッコ問題は「24区グルメフェスティバル」(通称グルフェス)というイベントに迫る自然災害に関連して三人に提示される。

■第二のトロッコ問題(第3話)
【状況】
グルフェスに巨大な竜巻が迫っている(ハザードキャストの故障で人々は竜巻の上陸に気付けない状態にあり、避難を呼びかけるチャンスは一度きり)
【選択肢①】
竜巻に塞がれる前に橋から人々を避難させる(ただし、弱者が逃げ遅れる)
【選択肢②】
コンテナで竜巻から弱者を守る(ただし、勇気ある者が犠牲になる)

 コウキとランは、なるべく多くの人を救ったほうがよいという功利主義的判断では一致したものの、人命救助のための手段の競合によって、本来の目的を達成することができなかった。コウキはなるべく多くの人を橋の向こう側に避難させようと考え、早い段階から避難誘導を積極的に行った。しかし、ランはなるべく多くの人をコンテナのなかに収容させようと考え、ハッキングによって中身が空のコンテナトレーラーを呼び寄せた。その結果、コンテナトレーラーが橋を塞ぐ格好となり、橋を渡って人が避難できなくなってしまう。このように「合成の誤謬」や「囚人のジレンマ」に類似した状況によって、とうとう死傷者が出てしまう(シュウタたちの高校時代の恩師である白樺先生も竜巻の犠牲となってしまう)。どちらの選択肢も選べなかったシュウタは「みんなが協力して、別の未来を目指していれば……」と悲嘆に暮れるのだった。そんな折、「カルネアデス」を名乗る人物が24区のネットワークを一斉にジャックし、「世界に未来の選択を突き付ける者」と自己紹介する。こうして物語は第二のフェーズへと入っていく。

利他主義のジレンマ

 トロッコ問題に関しては、回答者が目撃者の位置に立っているか、それとも当事者ないし関係者の位置に立っているかによって、回答にブレが生じることが知られている。「利他主義はつねによいことなのか」という切り口で用意された次のシナリオを考えてみると、そのブレを実感できる。

 あなたは待避線の線路上にいる。体が縛られていて逃げられない。暴走する電車が5人の人間に向かっていくのが見える。足を伸ばせば、路面電車の方向を切り替えるスイッチにちょうど届きそうだ。スイッチを押せば、電車は待避線に進路を向け、自分1人をひき殺す。スイッチを押さなければ、電車は5人をひき殺す。さて、あなたはスイッチを押すだろうか?

(カスカート『「正義」は決められるのか?』、96-97頁)

 ここで功利主義的判断を貫徹させるなら、回答者の立ち位置にかかわらずスイッチを押すのが正解ということになりそうだ。しかし、5人の命を救うために自分の命を差し出すことに心理的抵抗を覚える人は少なくないだろう。反対に、もう一つ別の仮定を置くことになるが、この5人のなかに自分の家族や親友が含まれていたら、あるいは前途有望な後輩や教え子が含まれていたら、積極的に自己犠牲を選ぶ人もいるのではないだろうか。こうしたブレは「もしも待避線にいるのがまったくの他人なら、私は5人を救うために電車を待避線に引き入れるでしょう。でも待避線にいるのが自分の子供や夫なら、そんなことはしません。知らない人を救うために自分の家族や友人を犠牲にするのは不自然ですし、とても健全とは思えない」という回答例として定式化される(同書108頁)。利他主義や自己犠牲にも限度があることを認めたとき、トロッコ問題は単純な数の問題ではなくなってしまう。

 本当はみんな、心の奥底ではわかっているんです。すべての状況で利他的になれないのは、他人の苦しみに対して自分に責任があると思いたくないからだと。意識するか否かにかかわらず、僕たちはその真実から無理やり目を背けているんです。

(同書104頁)

 このような利他主義のジレンマをRGBの三人に突き付けるのが、第三・第四のトロッコ問題である。

■第三のトロッコ問題(第4話~第5話)
【状況】
東京湾を航行する豪華客船にテロリストが爆弾を仕掛けた
【選択肢①】
船の爆破を阻止するために犯人を射殺する
【選択肢②】
犯人を見逃し、船の爆発に巻き込まれて多数の人間が死亡する

 第三のトロッコ問題に対して、コウキは「選択の余地はないな。無実の被害者を見捨てて、テロに屈するわけにはいかない」と言う(第5話)。コウキの言うように、この問題の正答は一見すると選択肢①以外にありえない。しかし、犯人はランの親友でDoRedの創設メンバーのクナイ(CV: 斉藤壮馬)であり、クナイの犯行は暴政に対する異議申立てであったという事情を考慮に入れると、途端に利他主義のジレンマが生じることになる。
 区長を務める豪理は、貧民街と化している旧市街「シャンティタウン」の再開発を進めるため、カジノ王ハワードと秘密裏に交渉を行っていた。24区の東京編入と同時に日本でのカジノ建設を実現させたいハワードはシャンティタウン再開発のための資金提供に応じ、ここに政治家とカジノ王の野合が成立した。維新政治や横浜市政を思わせるカジノ誘致の裏で、ハワードは半グレ組織とも結託してシャンティタウンの一掃に乗り出す。脳内麻薬の分泌を加速させ、強い依存性を持つ電子ドラッグ「D」を流通させることによってシャンティタウンの犯罪率を上昇させ、再開発を有利に進めようというのだ。この「D」の開発者に仕立て上げられたのが、シャンティタウンに住むプログラマーのクナイだった。
 クナイは自動音声生成アプリ「DiVAディーバ」の開発者であったが、認知症の祖母の介護費用を餌に半グレ組織につけこまれ、DiVAの権利を半グレ組織に譲渡してしまう。その結果、DiVAは改造されて電子ドラッグ「D」として流通し、クナイはまんまと犯罪の片棒をかつぐことになってしまった。ハッキングを通じてハワードの暗躍を知ったクナイは一矢報いるため、ハワードの豪華客船に爆弾を仕掛ける挙に出る。クナイの苦悩に気付いたランは、偽の情報でコウキを攪乱しつつ、親友のクナイを救おうとする(なお、シュウタは独断専行で豪華客船に忍び込むが、何もできないまま退却する)。しかし結局、クナイはコウキ率いるガイケイに射殺され、爆破テロは未然に防がれてしまう。クナイは「シャンティタウンで生まれた子供の将来の夢は二つ――犯罪者になって街をカネで支配するか、それともアーティストになって街を抜け出すか」と語っていた(第4話)。「川崎区で有名になりたきゃ/人殺すかラッパーになるかだ」というBAD HOP – Kawasaki Driftを彷彿とさせる世界観のなかで、クナイはその短い生を終えた。
 だが、クナイには秘策があった。爆破テロ未遂の政治的内幕を赤裸々に語る動画を予約投稿していたのである。クナイは自分がDoRedに所属していたことを告白し、「もし区のやり方が強引だと思うなら、シャンティタウンを守りたいと思うのなら……どうか、DoRedの仲間を応援してやってくれ」と訴えかけた(第6話)。この投稿で旗色が悪くなったことを感じた豪理は、ハザードキャストを越えた犯罪・災害総合予防のための「KANAEシステム」の試験運用を提言し、導入の是非を区民投票で決めると宣言する。
 DoRedのリーダーを務めるランはガイケイから指名手配を受け、表舞台から姿を消した。ランはクナイの遺志を継いで、バンで移動しながらKANAEシステム反対の配信を続ける(第7話)。街のあちこちでKANAEシステムに反対するグラフィティが見られるようになり、区民投票に向けて市井の政策論議は熱気を帯び始めていた。そんななか、今度はクナイを射殺させたコウキに利他主義のジレンマが降りかかることになる。ただ、第四のトロッコ問題を分析する前に、KANAEシステムについて若干の説明を施さねばならない。
 KANAEシステムは、すでに亡くなっている豪理の妻(つまりコウキとアスミの母)・香苗(CV: 大原さやか)の名を冠した都市総合未来予知システムである。豪理と結婚する前、香苗は大学でスマートシティの研究に携わっていた。香苗を悩ませたのは「責任」という概念とアルゴリズム・機械学習の不整合であった。過去から未来を予測するシステムは既存の価値観を強化するだけなのではないか。「人間社会は過去を更新して変化し続けた。人の生き方を過去だけで判断することはできない。ひとりひとり、未来の可能性を信じなきゃ。でも、可能性をどうやって数値化すればいいの? 誰が責任を取るの?」――香苗は難問に突き当たった(第9話)。この問いは、「天才アーティスト」と称されるランがグラフィティに懸ける思いを語った言葉と裏表の関係にある。

犯罪を作るのはデータじゃなくて、データを見る人の心だよ。ハザードキャストに頼っても、今の世界の法則が強化されるだけ。世界を変えるなら、人の心を変えなきゃ。

(第4話より)

 結局、香苗のスマートシティ構想を実現させるためには、演算装置として人間の生体脳が必要となることが判明し、この構想は人道に反するという理由で香苗自身により破棄された。その後、香苗は研究者の道を辞し、宝小学校の教員となった(その過程で豪理と結ばれ、コウキとアスミの二児に恵まれた)。幼少期のコウキに香苗は次のように言い聞かせていた。「世界に完璧はないの。誰かを助けたいと正しいことをしようとすると、今のルールとぶつかってしまう人もいる。……そんなとき、あえてルールから外に踏み出す人もいるの。それはそれでね、とっても勇気のいることなのよ」、「大切なのは、何が正しいのかをみんなで考え続けることなのよ」(第6話)。スマートシティ構想を捨てた香苗が語る言葉は、市民的公共性を重視するスロー・ポリティクスの標語のように聞こえる。

「美少女」のもとでの大同団結

 ところがある日、香苗は通り魔の凶行に斃れ、豪理は悲しみのどん底に突き落とされることになる。豪理はすべての犯罪が未然防止される社会を実現すべく、香苗の研究を引き継いだ黒葛つづらがわ早紀子(CV: 生天目仁美)とともに、香苗のスマートシティ構想を基礎理論としたKANAEシステムの開発を進めたが、演算装置となる代替脳の設計は困難を極めた。そんな折、豪理は火災事故によって愛娘のアスミまで失ってしまう。「これは天啓だ。人々の幸せのため、アスミを24区の守護天使にする」――豪理は悪魔に魂を売って、アスミの亡骸をコアに据えることで、ハザードキャスト及びKANAEシステムの実用化にこぎつけたのであった(第9話)。
 以上を踏まえたうえで、第四のトロッコ問題に話を戻そう。

■第四のトロッコ問題(第8話)
【状況】
情報集積電波塔「コルヌコピア」の最上階への落雷によって、タワークレーンが制御を失う
【選択肢①】
タワークレーンが落下して多数の人間が犠牲になる
【選択肢②】
タワークレーンの制御を復旧させる(ただし、その制御を担う「カルネアデス」は落雷で死亡する)

 この問題も第三のトロッコ問題と同様に、一見すると選択の余地のない設問に思える。しかし、実は「カルネアデス」の正体がコウキのお目付け役・黒葛川であり、彼女はKANAEシステムの重大なバグを豪理に隠すために「カルネアデス」を演じていたという事情を考慮に入れると、利他主義のジレンマが再び生じることになる。
 KANAEシステムは、コアに使われているアスミの意識がシステム内に残留しているという重大なバグを抱えていた。アスミは生物学的には確実に死んでいる。しかし、有機脳と機械をつなげて電気を流すことで、アスミの意識がKANAEシステムのなかで再び生じたのだ。通常、アスミの意識はシステム全体に遍在しているが、ハザードキャストによってアスミの知り合いが犯罪や事故の被害に遭う未来が予測されると焦点を結び、RGBの三人に助けを求めて電話をかける(この電話は軍事技術を応用した「サイファー」と呼ばれるもので、聞いた人間の能力を飛躍的に高めるとされる)。これまで三人に提示されてきたトロッコ問題は悪夢にうなされたアスミの悲鳴だったのである。アスミの意識がまだ残っていることが明らかになれば、愛娘を人身御供にした豪理は発狂しかねない。黒葛川はKANAEシステムのバグを「カルネアデス」が起こしたハッキングの結果と偽って時間を稼ぎ、人知れずコルヌコピアの最上階でCMD(Consciousness Mapping Data)、すなわちアスミの意識の在処を特定したデータの収集を続けていたのだった。
 第四のトロッコ問題は、「カルネアデス」の正体を知って黒葛川を助けようとするコウキの行動が、かえって黒葛川に自らの死期を悟らせる結果を招く。黒葛川はアスミの敷いたレールに乗って、タワークレーンの制御を復旧させた後、雷に打たれて倒れ伏す。しかし、嵐のコルヌコピアに乱入したシュウタの心臓マッサージと救急搬送により、黒葛川は一命を取り止める(シュウタ自身は再び制御を失ったタワークレーンの倒壊により負傷する)。
 第四のトロッコ問題に前後して、RGBの三人は三者三様に――シュウタとコウキは黒葛川から、ランはKANAEシステムの破壊を目論むグラフィティの師匠・ゼロス(CV: 諏訪部順一)から――アスミの残留思念について知るところとなっていた。本作はいよいよ、システムに囚われた「美少女」を解放するという第三のフェーズに突入する。KANAEシステムの賛成派と反対派の衝突が激化するなか、黒葛川たちからCMDを託されたシュウタは、ランとコウキを因縁浅からぬ宝小学校跡地に呼び寄せ、最後のトロッコ問題に挑む。

■最後のトロッコ問題(第11話~第12話)
【状況】
アスミの残留思念がKANAEシステムのなかでもがき苦しんでいる
【選択肢①】
個を尊重するプライバシーのため、CMDをランに渡す(アスミの意識の存在が証明・公表され、KANAEシステムは停止される)
【選択肢②】
全を重視する安全のため、CMDをコウキに渡す(KANAEシステムのバグを修正するプログラムを走らせ、アスミは永遠にKANAEシステムのなかに眠り続けることになる)

 どちらの選択肢を選んでも、アスミの残留思念は消え去り、アスミは本当の意味で死ぬ。三人はCMDをめぐって殴り合いの喧嘩を行い、相打ちになって倒れ伏す。この殴り合いのシーンは感情の振れ幅を大きくしながら、大袈裟に個々のエゴイズムを衝突させる芝居で構成されているが、RGBの各役柄の全体としての特性は崩れることなく維持されており、動的平衡を思わせるがなり声の応酬として非常に魅力的である。声をあえて裏返らせながら叫ぶ榎木淳弥と比較的高め/低めの声域で叫びながらも声は裏返らせない内田雄馬/石川界人の差異は、用意された選択肢を選べずに迷い続けるシュウタと一方の選択肢を選ぶことに固執するラン/コウキの対抗を巧みに表現しており、本作屈指の聞きどころである。

 三人は迷いながらの口論と殴打の果てに、アスミに会いに行き、もう一度話をするという第三の選択肢に辿り着く。三人は自分の意識をデジタル化(?)して、電脳少女となったアスミのもとへ飛んでいく(一応、DiVAのデータ、KANAEシステムの分散コンピューティング、コウキの管理者権限を掛け合わせる……などと説明が試みられているが、もはや細かい考証を気にしていても仕方ない)。そして、KANAEシステムに反対するデモ隊が区庁舎に迫り、一触即発の雰囲気が漂うなか、24区中の携帯端末にアスミから着信が届き、RGBの三人とアスミの会話が24区内に同時配信され始める。24区中のデータを集積して過去から未来までを見通すようになったアスミは、まるで聖女のように、もはや自分が犠牲になる以外に方法はない、「救えない人間を決める」重荷をシュウタたちに背負わせるわけにはいかないと言う。「責任」を一人で抱え込もうとするアスミに対して、三人は次のように語る。

シュウタ 俺たちがお前の代わりになるよ。誰かに責任を押しつけたりしない。自分の未来は自分で導いてやるよ!

コウキ  一人では無理だとしても、俺たちはみんなでそれをやる。俺たちの未来は、みんなが意見をぶつけ合って、そのなかで掴み取るしかないんだ。

ラン   失敗するだろうね。また何かを失うんだろうね。でも大事なのは、どうなろうと結果を受け入れること。その覚悟ができる選択を、俺たちの手でとことん探す。それしかないっしょ。

 さらに、シュウタは「俺たちの可能性に、不可能はない!」とダメ押し的に言い切る。三人の心強い宣言を聞いて、アスミはとうとう希望に満たされ、未来の選択を24区の住民に託すことに決める。彼らのメッセージは「正しいと信じたことをし、どんな結果でも後悔しない」という白樺先生の教え(第3話)、そして「大切なのは、何が正しいのかをみんなで考え続けることなのよ」という香苗“先生”の教え(第6話)と重なる部分が多い。香苗“先生”の教え子たちがKANAEシステムの欠陥にパッチを当てるという構成は脚本家の慣れた手付きを感じさせるが、ともかく本作が提出した結論はベタに市民的公共性の価値を謳い上げるものであり、今の御時世においては一定程度評価に値すると言うことができる。
 2010年代の世界では「巨大IT企業、あるいは政府が人々の行動パターンや嗜好、そして欲望などをビッグデータとして吸い上げ、功利主義的な目的(「治安をよくする」「より豊かになる」など)の観点から望ましいとされる社会的なアーキテクチャをきめ細かく設計し、人々の正しい行動を統御していく、という双方向性を持った秩序形成のあり方」、すなわちアルゴリズム的公共性がますます幅を利かせるようになっている。それとは裏腹に、「生活世界に生きるひとりひとりの市民と、メタ合理性ベースのシステム(具体的には議会や内閣、NGOなど)との間におけるインタラクションのあり方」としての市民的公共性は腐敗の一途を辿っているように見える(梶谷懐/高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019年、170-208頁、特に181-187頁)。このような情勢だからこそ、市民的公共性への軟着陸を果たすフィクションは希少かつ貴重であり、サンデルの著書を今一度紐解くきっかけにもなるのではないだろうか。

公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。
 所得、権力、機会などの分配の仕方を、それ一つですべて正当化できるような原理あるいは手続きを、つい探したくなるものだ。そのような原理を発見できれば、善良な生活をめぐる議論で必ず生じる混乱や争いを避けられるだろう。
 だが、そうした議論を避けるのは不可能だ。正義にはどうしても判断がかかわってくる。……正義の問題は、名誉や美徳、誇りや承認について対立するさまざまな概念と密接に関係している。正義は、ものごとを分配する正しい方法にかかわるだけではない。ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。

(サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、335-336頁)

 ただし、本作は決定的な弱点も抱えていることを指摘しておかなければならない。それは「美少女」というアイコンへの傾倒が認められるということだ。シュウタは「俺たちの可能性に、不可能はない!」と啖呵を切った後、いまにも昇天しそうなアスミに向かって「俺、お前が好きだ!」と自分の気持ちを伝える。すると、この告白に呼応して、配信を見ていた人々は感涙にむせびながら、異口同音にアスミ(が写る画面)に対して「大好き!」と言い始める。KANAEシステムの賛成派も反対派も、24区の為政者も住民も関係なく、人々は画面越しの「美少女」のもとで大同団結を遂げる。KANAEシステムは最終的にアスミ自身の意思でシャットダウンされ、豪理は泣き腫らした目のまま記者会見を開き、KANAEシステムの全貌をマスコミに明かすのだった。そして、生体脳の代わりに「オープンな民意を反映したKANAEシステムのVer. 2.0」が模索され始めるところで、本作は幕を下ろす。
 すでに述べたように、本作がベタに市民的公共性を擁護している点は評価に値する。しかし、本作は人々の熟議によって生じた亀裂(cleavage)を修復するために、聖女じみた「美少女」の力に頼ってしまった。この鳥肌が立つような、そして同時に強く興味を引く結末によって、熟議を旨とする市民的公共性の基盤は揺るがされている。何となれば、「美少女」頼みの意思決定は「カリスマ的支配」ならぬ「美少女的支配」に他ならないからだ。ここで思い出されるのは、二年前、香港の政治活動家・周庭(アグネス・チョウ)が「民主の女神」などと持て囃されていたとき、彼女の同志である黄之鋒(ジョシュア・ウォン)は「チー牛」呼ばわりされていたということだ。連合国の統治下で歓楽街として発展を遂げた人工島・24区という設定が香港の歴史に着想を得たものなのかは不明だ。しかしながら、本作が市民的公共性を擁護するために「美少女」を持ち出したことが、「民主の女神」ばかりを抵抗のアイコンとして持て囃すような風潮と奇妙な符合を示しているのは否定しがたい。結局のところ、本作が浮き彫りにしたのは日本の「美少女的支配」という不文律だったと言えるのかもしれない。

おわりに

 「美少女」の問題を措いても、本作がポリティカル・フィクションとしてのまとまりに欠けていたことは認めざるをえない。市民的公共性の価値を前面に打ち出すのは方向性としては悪くない。しかし、欲を言えば、アルゴリズム的公共性の肥大化を市民的公共性でいかにコントロールするかという現代的な課題についても検討してほしかった(単に最先端の技術を使わなければいい、というわけにもいかないから)。本作には予防逮捕法案(第8話)、自動運転プログラムにおける命のプライオリティ(第9話)、ターゲティング広告や陰謀論による道徳感情の刺激とそれを通じた世論誘導(第10話)、内集団/自集団をひいきする「部族主義」あるいは「内集団バイアス」(第10話)など、重要なトピックがいくつも含まれていたが、消化不良のまま終わってしまったのは惜しい。
 最後に、本作の出演者について一言だけ。シュウタの母親・桐子役を演じた野中藍、コウキの母親・香苗役を演じた大原さやか、コウキの側仕え・黒葛川役を演じた生天目仁美の三人の共演(及びバイプレイヤーとしての活躍)を久々に聴けたのは素直に嬉しい。彼女らは『ぱにぽにだっしゅ!』(2005年)で共演しているが、この作品は「美少女」アニメの適切な強度について、パロディやインターネットの悪ノリとの距離感も含めて再考するための適切な教材(?)となるのではないだろうか。若手のなかではアスミ役を演じた石見舞菜香と、DoRedの一員・きなこ役を演じた兎丸七海が役柄にも恵まれたか、庇護欲をかきたてる声の表情で印象に残った。愛されキャラに説得力を与える声とは何か、という主題で掘り下げてみたら面白そうだ。

参考文献

梶谷懐/高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019年。

トーマス・カスカート(小川仁志監訳/高橋璃子訳)『「正義」は決められるのか?:トロッコ問題で考える哲学入門』かんき出版、2015年。

マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』早川書房、2010年(リンク先はハヤカワ・ノンフィクション文庫版、2011年)。

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