見出し画像

#481 奈良教附属小の問題から考える教育の担保と進化の両面を支える学習指導要領のありかた

 学習指導要領とは、全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、学校教育法等に基づき文部科学省が策定する、「各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準」のことです。学習指導要領には「法的拘束力」があり、それは前述した「一定水準の教育の担保」、つまり学びのセーフティネットという観点に加え、憲法に違反するような思想や、それを強化する偏った知識を子ども達に教えないという防衛システムとしても機能しているからだと言えます。

 今年1月、国立大学法人・奈良教育大付属小(奈良市)で、教育法令を無視した不適切な指導の実態が明らかになったというニュースがありました。

 

 記事の中では、外部から受け入れた校長によるガバナンス(組織統治)機能が形骸化しており、一部の教員には、文科省の指導や学習指導要領を軽視する雰囲気が蔓延(まんえん)していたと書かれています。

 一方、同校が、考えなしに学習指導要領を遵守しなかったかというと、実はそうではなさそう。その根底には児童の学びを支えるための最適解を模索する姿勢が伺えます。

 「奈良教育大附属小の教育実践を「不適切」とすれば、全国の前向きな教員や学校を萎縮させることになる」の記事では、神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授の川地亜弥子が同校の教育について、「子どもの実感をとても大事にしている授業をしており、子どもたちを中心にして教育課程の工夫ができている」と指摘し、法令遵守の観点について以下のように述べています。

 「子どものために必要だとおもいます。とくに附属小は実験的・先進的な教育を行うという役割もありますから、子どもたちの実感をつかんで履修年次を見直していく試みは、むしろ、重要です。その実践が、次の学習指導要領や、全国の学校での授業改善にも役立っていくはずです。しかも教育課程の編成は、学習指導要領に基づいて、それぞれの学校が主体としてやることになっています。つまり、附属小が根拠をもって履修年次を変えている場合、法律違反と断言することはできないとおもいます。「法律違反」という報道もあるようですが、教育法等の観点からきちんと検討しないでそこまで言えるのか、私はかなりの疑問をもっています」

 また、母体の奈良教育大学のHPには、今回の問題についての謝罪文が乗せられていますが、附属小の校長である小谷隆男氏のコメントには、自分たちがやってきたことへのプライドが滲み出ているように感じます。

 奈良教育大学附属小学校は、我々奈良県で教育に携わる者にとって、唯一無二の存在であって、他の公立学校がお手本にする存在であると、公立教員であった私自身はこれまで考えてきました。しかし、校長として4月に赴任し、毛筆指導、道徳、外国語などが不十分であることや、職員会議の決定権が強く校長の権限を制約していることなどに疑問を感じました。その改善に向けて職員会議に提案や指示をすることで本来の姿を取り戻したいと努力しましたが、私自身の力不足によりその改善を図ることは出来ず、今回このようなことになってしまいました。保護者・児童の皆様、関係者の皆様には、心よりお詫びを申し上げます。
 本校の教員は子どもに対して実に丁寧にきめ細かく指導していたことは間違いなく、驚くほど前向きに自分の言葉で話せる児童が多いことも事実です。今回、このようなことになり、保護者・児童の皆様の信頼を失うことになってしまいましたが、今後は、法令遵守を心掛けることを大前提とする中で、職員一丸となって地域のモデルとなるような研究を進める優れた小学校をめざし、一から努力を重ね皆様の信頼を取り戻す所存です。

 確かに学習指導要領が持つ法的拘束力には、それを守るだけの意義と価値、そして使命があると個人的には考えています。一方、文科省が示す教育振興基本計画の中で「イノベーション」という言葉があるように、新たな価値を創造するためには、時として今までのルールを打ち破る必要性も出てくる。細かい内部事情は私には当然わかりかねますが、同校が児童の学びを支える質の高い授業を展開していたのならば、学習指導要領が、そのイノベーションの足枷になっていることになる。国民の教育を守るルールが、国民の教育の進化を止めるというジレンマを、より良い教育を求める多くの人たちが感じているのではないか。

 日本は法治国家であり、法を守らなければ罰則がある。一方、法をどのように解釈するか、どう変えていくのかもまた、法治国家としての義務であると言える。教育の担保と進化の両面を支える学習指導要領が必要とされる今、新たな「法の解釈」が必要な時期にきているのだと思います。

 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?