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#476 不必要の定義とは?

 『古市憲寿氏「古典の授業が無駄」議論に私見「外国語よりも有益なのか」カンニング竹山も「めっちゃ分かる」』という記事が話題になっています。

 社会学者の古市憲寿氏は自身のSNSで「古典の授業が無駄」という議論に対して以下のように述べています。

 そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ。みんな教育に期待しすぎだと思う。この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」

 その記事の内容に対して落語家の立川志らく(60)が29日、X(旧ツイッター)を更新。古典の授業をめぐるSNS上の議論を受け、以下のように私見を述べています。

 学校の授業はどの分野に興味を持つか探る機会で、古文に興味を持ったらその道に進めばいいだけ。それを社会生活に必要ないからと排除してしまったら誰も古文を研究する人がいなくなっちゃうよ。それに無駄と言えばたいていのものは無駄。『人生とは最大の暇つぶし』という言葉があるが、音楽や美術だって必要じゃない人からすれば無駄

 個人的な意見は、志らく氏のものと近い。何が無駄かどうかなんて学んだ人しかわからない。古典を活かすか殺すかは、結局その人自身の問題です。一方、古市氏が指摘する、私が最もポイントだと思うのは、同氏の「逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」というもの。

 ともすれば、学校教育における最も価値ある学びは、「学び自体が価値あることであるという認識を持つことと、何かを学ぼうと思った時に自分の学びを支える様々な武器を手に入れておくこと」だと言える。

 古典を「学校で」学ぶ必要があるかなんて正直誰にもわかりません。分量を少なくすることもできるだろうし、選択科目にすることもできるかも。されど、学校は機会を与えるという役割を担う教育機関です。できるだけ多くの学びを、できるだけ多くの人に。その理念のもと、どのように時間と労働資源を割り振っていくべきか。そこを考えるだけの話なのです。

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