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色野おと、何者?受け継いだ遺伝、ハンディを乗り越えて見出した自分の生きるとは。


色野おと(IRONO OTO)です。

ほかのSNSでは“銀色のカモシカ”というニックネームを使って、自分で撮った写真を投稿したり、どうでもいいことを呟いたりしていました。過去形にしていますけれど、辛うじて現在も進行形ではあります(汗)
1966(昭和41)年の丙午生まれのオジさんです。ちなみに星座は6月生まれの蟹座♋で、運命数(誕生数)は33のマスターナンバー。

PhotoDate 2017.05.21

仕事は早期リタイアしましたが、某出版社のリモートで専属の文筆及び編集・校閲をしていました。いわゆる記者&編集者として社会記事と芸術記事を担当していました。今は極々たまにですけれど後輩たちの取材・作文の指導・OJT・校閲などのお手伝いをさせてもらっている程度です。なので「仕事は?」と訊かれると、細かいことをいちいち説明するの面倒なのでテキトーに「主夫デス」と答えています(笑)

今でこそ呑気に振る舞うようなマネができるようになりましたけれど、以前の私は物事を深く考えすぎる感があって凄く疲れやすい性格でした。


母から受け継いだとんでもないもの

私は生まれつき神経障害があって、良くも悪くも自分の感覚を強く刺激する色や風景を目にすると、そこから何かしらの音を感じました。心地よい音もあれば、頭痛を覚えるほどの鋭く嫌な音だったりもしました。今でこそ音視(共感覚)とかって如何にも様の良いような言われかたをしていますけれど、現実は結構神経が疲れるので本音はないほうが良いですし、私にとってはただの神経障害でしかないので物凄く嫌です。自分でコントロールする以外に治療法は全然ないんですよ……

PhotoDate 2023.04.09

母は私が6歳になった頃から私を油絵教室に通わせるようになりました。受ける色彩感覚をコントロールできるようにするために。その当時はその神経障害が母譲りの遺伝であることは教えられていませんでした。

小学校に入学して二学期の中ごろのことでした。学校全体で学外の写生活動がありました。私の症状は酷くなっていて担任の先生に「嫌な音が響いて頭が痛い」と訴えました。変なことを言う子供だというレッテル。クラスの子供達にもそれがバレて、私はしばらく登校拒否になりました。担任の先生が信じられなかったんです。

病院に行って細かく検査を受けるようにと学校から通知がありました。地元の大学附属病院で診断されたのは神経障害。でも母は本当のことを知っていました。そしてそのときに初めて母から明かされたんです。

「あなたのその音が聞こえるというは、実はお母さんも子供の頃にあったのよ。今はもう聞こえなくなった…というより、目から受ける感覚を上手くコントロールできるようになったの。お母さんが子供の頃はそんなことを言うと“頭のおかしな子供だ”と看做されて、施設に閉じ込められて指導を受けたりさせられたの。だから、おばあちゃんは必死に隠し通したのよ。ごめんね、こんなの変な遺伝よね」

言葉は正確には覚えていませんけれど、そんなような事でした。私は幼いながらも理解して、積極的に油絵教室に通い、色彩感覚を磨くようになりました。これが美術へのめり込むきっかけになりました。

母はこのほかにも、もうひとつ大切な秘密を私に隠していましたけれど……それはまた別のお話。

祖父からの隔世遺伝。人生の大転換

のちに認知症で施設に入所した母が泣きながら謝ってきたことがあります。「心臓は大丈夫?ごめんね、丈夫なカラダで産んであげられなくて」と。

認知症なのに。息子である私をちゃんと心から気遣えるのに。認知症になる前、実は強度の攻撃型の妄想性障害だった母のせいで私の家庭は崩壊したんです。けれど、それでも心から懺悔していて大粒の涙を流している痩せ細った母の姿を目の当たりにして、それまで心に降り積もっていた凍てつく雪が溶けたように、ベッドに横たわる母をとても愛おしく感じて涙が溢れました。

PhotoDate 2018.03.27

私は2012年11月に職場で倒れて、地元の市民病院で検査を受けたところ“ブルガダ症候群”だと診断されました。原因不明の心室細動で突然心臓が止まってしまうという病気で、当時でもまだ特効薬がないためICDという植込み型除細動器を左胸に植え込むことになりました。2013年2月14日に植え込み手術を受けて、心臓機能障害1級の身体障害者となりました。

2016年11月。母が衰弱で亡くなるひと月前のことでした。お見舞いに行ったとき、ベッドの母は大切なことをひとつひとつ思い出すような真っ直ぐな眼差しで、認知症とは思えないほどしっかりとした丁寧な口調で言いました。私のこの心臓の病気はおじいちゃんの遺伝だと。母方の祖父は心臓突然死(ぽっくり病)で呆気なく他界。母の弟に当たる叔父も心臓突然死で亡くなっています。まだブルガダ症候群という病名が世に公表される前のことでした。

そして2016年12月、私にとって血の繋がる肉親で最後の一人だった母が亡くなったときに、ベッドで書いたという母からの最後の手紙を院長さんから渡されました。一番印象が強く残っているのは……

そんな、途方もなく昔から。命の尊さ

「あなたはおばあちゃんの家系である一乃瀬と、おじいちゃんの家系である小林の御本家、伴在(ばんざいと読みます)の血をしっかり受け継いでいます。あなたのお父さんの山田家の血筋よりも濃く流れています。父子家庭で親子二人三脚で苦楽を共に暮らしてきたあなたの愛娘、そして私の大切な孫でもあるあの子が先方に拐かされ奪われはしたけれど、それでもあなたは天涯孤独などではありません。複雑な血筋ですけれど、一乃瀬、伴在どちらも平安時代に遡る由緒ある家系の血を引いています。それを証明する蔵人頭在原業平の自筆印のある古文書がまだ家の倉庫にあるはずです。紛失している帖、巻もありますが、あなたのこれからの生き方を助けてくれると思います。どうかあなた自身の命と同じように大切にしてください」

PhotoDate 2023.05.05

保管状態があまり芳しくなく、虫食いが酷いものでした。わざわざ新潟から神戸まで足を運んで鑑定分析してもらったところ、少なくとも江戸時代中期頃に一度書き直されているようで、その時代に相応しい内容も加筆されて歴々代々受け継がれてきたものであるとのこと。在原業平の自筆印の書かれた書面は虫食いが原型を失うほどに酷すぎて、叔父が過去に鑑定してもらった際の書簡内容のメモ書きが遺されていました。分かっているだけでも平安時代初期から続く母方の御先祖の重みをとても強く感じました。

正直、自分の命を自身の手で…と

心臓に障害があることで、耐え難い差別を受けたこともありました。障害の程度が目に見えないから扱いたくないとか、関わりたくないとか。身体の表面上に見える障害のほうが、周りは怯えることなくフォローもできる……と様々に言われて。よりにもよって、それらはハローワークからの障害者雇用専用の紹介を受けて実施された採用面接の際に、使用者の立場の者から言われた言葉。かつては社会保険労務士として、いみじくも障害者雇用制度を熟知して使用者側に立ってコンサルタント業務に携わっていたことのある私は愕然としました。

え、なんなのそれ?障害の中にもそんな差別があるなんて、これからどうやって生きていけばいいんだよ!?国の定めた障害者雇用促進法なんて目に見える部分のことだけでしかなくて、奥にある深く傷ついている障害者のことまでは見ていない。それが現実だと叩き付けられました。

そのせいで心を病んで生きづらい時期を過ごしたこともありました。社会がこんなんじゃもう生きていくことなんか無理だ!そして新潟県労働者福祉協議会の新潟市パーソナルサポートセンターの相談支援員さんとか警察の方々の助けがあって一命を取り留めた出来事もありました。そのときに私が虫の息辛々に手に強く握っていたのは家宝の古文書でした。

そのときに感じたのは、母方の一乃瀬家(祖母方)と伴在家(祖父方)歴代の御先祖達の寄り添うような不思議な空気でした。エネルギーとも違うような何かの存在感みたいなもの?でした。

社会を嘆いてもしゃーないな

それ以来、自分を社会の尺度や枠に当て嵌めて、どう生きなきゃならないなんて考えるのは、自分が生かされている意味とは少し違うような気がしてきたんです。だからと言って社会を変えようとは思わない。社会は誰かが変えるものではなくて、淘汰されて自ずと変わってくる。誰かがエゴや欺瞞、権力などの力によって社会を変えようとするところには必ず歪みが生まれて何かしらの諍いが起こる。それが大きく表面化すれば喧嘩にも争いにもなる。

確か、四十代だった頃にマルクスの『自省録』を読み終わったときも似たような感想を得た記憶があったような。また再読してみよう。

自分が弱者であるが故に不利益を受けたり、社会のせいにして不平不満を漏らすのも、もう嫌だと思ったんですよ。いつまで経っても誰かや何かに依存し続けて、そういう自分ではない何かを逃げ場にして……そんな弱いままじゃダメだと思って。嘆くなら、そういう自分を嘆いたほうがまだ健康的だし弱い自分を変えていけそうだなって思ったんです。生かされるってそんなところにあるように思えたんです。

だから、まずは自分の気持ちを豊かに

自分自身に問い掛けてみました。何かに従って、教わったままのことをしただけのただの受け売りで、自分は豊かになった気分でいる?誰かのまねごとをあたかも自分で生み出したことのように錯覚して、またそれを誰かにレクチャーして自己満足で気分良くなるのかな?それって本当に豊かになったのとは性質的に違うよなあとつくづく思ったのです。

PhotoDate 2023.07.17

自分が障害者になってみて、社会の尺度や枠に合致しない存在になってみて、社会的弱者の本当の現実と真実を痛いくらいに目の当たりにしてきました。誰かの作り上げた一般論では自己肯定感は得られないことを嫌というほど思い知らされました。

自分を救ってくれたのは、自分だけに与えられた環境の中にこそあるのかも?弱い自分というものをとことん掘り下げて追求して見つけ出したものの中にこそ、自分を豊かにしてくれて、頑丈で誰か(あるいは何か)に壊されることのない“タマ”があるように思いました。タマというのは自分の中に存在する拠り所となるものを私なりに比喩表現したもののことです。人によっては別の言い方があるかもしれないですね。

私の《生きる》ということ

答えはひとつだけではないのですけれど。
今の段階で、その誰かに壊されることがなくて、自分を真に豊かにしてくれる“タマ”というのはひとつだけではないかもしれないと思っていまして。なので、私はまだまだ追求の旅の途中なのです。

そのきっと幾つかあるだろうタマを探し続けることが、自分ならではの生き方になるのではないだろうかと自己推察しているわけなのです。

PhotoDate 2023.03.28

私はその手段のひとつとして好きな写真を撮り続けたいし、そこに自分らしさを追求したいと思っているのです。なので自分で撮る写真一枚一枚にはその刹那の想いとかもあるし、自分の置かれている状況やそれに対する間接的な感情も無視することができなくて。

豊かに生きるって、自分のいろんな感情に蓋をして押し殺したりしないで、きちんと受け入れて自分を認めてあげることが大切なんじゃないかって思います。豊かさの尺度って何で量ってるかと言ったら自分自身の心なので。

それらをnoteに残していけたら、きっと誰かにとっても自分探しの参考とかになれたりしないかな?…そうだったらいいなあという安易な期待もあって、noteを始めてみようと思ったわけでした。

長い文章になってしまったけれど、ここまで読んでくださった方いたかしら?(汗)……内容、伝わってると良いのですが。

記事更新はそんなにマメには出来ないかもしれませんけれども、細く長く続けていけるように飽きられない頻度で書いていけたらと思っています。また覗いて貰えたら嬉しいです。

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