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「書籍編集者」という憧れに、全力でぶつかって砕け散った話

5年以上も前、私はひよっこ編集者だった。この頃の記憶は今もまだ生焼けで、上手くできなかった数々のことを思い出すと、苦々しい気持ちになる。

「はたらくってなんだろう」
未だにそう思う。砕け散ったのに、未練がないというと心が波立つ。

育休中のいま、輪をかけて、今後どんな風に働いていきたいのだろう、何がしたいのだろうと、立ち止まっているところがある。それを考えたくて書きます。

小さい頃から本を読むのが好きだった。文庫本などのあとがきで、「編集の〇〇さん、あなたの助けがなければこの本はできませんでした。」といった賛辞が贈られているのを見て、編集者に憧れるようになっていった。

新卒では、中の中くらいの出版社に入った。
ちなみに大手は全滅だった。正規の就活時期、いろいろあってほぼウツ状態で、唯一ESと筆記を通った某社の面接には、どうしても起きられずに受け損ねたという体たらく。
大学5年の1月くらいまで就職が決まらず、「未経験可の中途採用」をしていた出版社に、編集職で拾ってもらった。

ちなみに、「編集者」は横の転職が多い。
どんなに小さな出版社でも、企画が当たる(書籍が売れる)ことはあるし、実績があれば大手に転職することもできうる。なので「どうしても編集者になりたい」人は、どうにかして業界に入ってみるといい、と思う。受け続ければ、どこかには入れる、と思う。おそらく。

そういうわけで、「新入社員研修」など何もない社会人生活が始まった。
先輩編集者たちは、みんな個性豊かだった。
最初、先輩に「一冊の本があるでしょ。カバーがあって、帯があって、本体があるでしょ。これをつくるんだよ」、と教えられて面食らった。(間違いではないけど)。
見かねた編集長が、神保町の三省堂書店に連れて行ってくれて、「編集者の仕事」みたいな本を何冊か買って渡された。背とか、のどとか、スピンとか、編集記号とか、校正の流れまで、本で覚えていった。

入社1週間後の企画会議で、「来週には、あなたも企画出してね」と言われて、当時ネットでバズっていた人の企画を出して、あっさりと通った。
アポの出し方もわからず、先輩に教えられて、ホームページからつらつらと長文のラブレターのようなメールを送った。書籍を出してもらえることになった。

先輩たちをひたすら捕まえて、質問して、なんとか仕事になっているのか、いないのか、わからないような日々が始まった。
一日中本屋の棚を眺めて、企画を考えたり、素敵な装丁家を探したり、ひたすらネットサーフィンをしたり、イベントや講演会に顔を出して、著者を探したりした。
そのうち、前任者が休職したことで宙ぶらりんになっていた企画を2本引き継いで出版したけれど、初めてつけた書籍のタイトルも、帯のコピーも、いまから思えば全然ダメだった。その2本は見事に売れなくてつらかった。思い詰めて、ヤフー知恵袋に「仕事でマイナスを出してしまった」と相談し、思いの外、たくさん慰められて支えられた。

その後、1年ほど先輩のアシスタントのような形で働いて、1年半くらい書籍編集者として企画をした。
同僚の編集者と、非常階段のすみっこで、考えている企画や、気になっている著者の話をするのが何よりも楽しかった。あの非常階段は青春だった。
在籍中、4本の書籍を企画して、これはちょっとした自慢だけど、4本とも重版がかかった。ひとつは10万部を超えて、私の退社後、某大手で文庫化され、夏のフェアに並んでいた。
この結果だけ考えると、もう少し続けていればもっといい編集者になれたんじゃないかと、今は思う。だけど続けられなかった。

会社にいると、仕事のことを考えると、動悸が止まらなくなって、そして以前にも書いたように母親の病気が決定打になって、辞めてしまった。

潰れた理由はいくつもあるけれど、結局は、編集者でいることの責任に耐えられなかったのだと思う。
原稿のなおし方もろくにわからないのに、偉そうに意見を言う自分。
著者から夜中にかかってくる相談の電話。人生について相談されることもあった。答えるに値する経験も知見もないのに。
本が好きでなったはずの仕事なのに、仕事に追われるなかでの「読書」は、どんどん苦しくなっていった。
PRにSNSを使うこともあったけれど、何か失言をするのが怖くていつも怯えていた。
売上を左右する、書籍につけるタイトル、帯のコピー、装丁家への依頼。販売後のイベントの取り仕切り。
正しいやり方もわからず、相手を激怒させたこともあった。体当たりで手探りな日々がつらかった。

大好きな著者が、大切な人生を注ぎ込む一冊。

その一冊が、売れなくていい訳がなかった。
発売前には、いつも、内臓が絞られるような強さで、売れてください、どうか売れてください、と、祈りながら帰り道を歩いた。メディアに取り上げてもらうために、一通一通手紙をつけて山ほど献本をした。

気負いすぎていた。
「あなたはまだ、なんだか大学生みたいな感じがする」と、編集長に言われたこともあった。

その通りだった。社会人として未熟だった。
ぐずぐず悩まず、目の前のことをきちんとすること。「いい塩梅」で、自分が働き続けられるペースで働くこと。めどをつけて家に帰ったり、思い詰めないように気分転換したりして、いい状態を管理すること。そういうことが、まるでできていなかった。

全てすっ飛ばして、「この原稿を、なんとかして世に出さなければ!売らなければ!」と、体も心もガチガチのまま、息切れしながら働いていた。周りの人たちにも沢山迷惑をかけた。迷惑をかけていると思うとさらにガチガチになる悪循環だった。

勝手に、著者たちの「人生」を背負いこんだ気になっていた。
「この本が売れれば、反響があれば、著者の人生が変わる」。
「著者の主張が社会に受け入れられれば、もっと社会がよくなる。変えられる」。
大袈裟でなく、そう信じきっていたからこそ、とにかく怖かった。
そして、いくつかの仕事が、思い描いていた通りに進められなかった時に、ガチガチだった心はポキンと折れた。

辞める直前の記憶は正直おぼろげだけど、「私が担当じゃなければ」と、どの著者に対しても、強烈に思っていたことだけは覚えている。
もっといい編集者が伴走していたら、この人も、この人も、もっとうまく、高く、飛べたんじゃないか、と。

そうやって思い詰めて戻れないくらい、若くて、青かった。

いまこうして書きながら、私は「書籍編集者」としてよりも、「新卒社員」として挫折したのだと思う。

相談できる人がいれば良かったのかな。いや、ちがうな。
心配してくれる人もいたのに、無駄なプライドを握りしめたまま、相手の言葉を心の中に染み込ませて、きちんと受け取ることができないくらい、頑固だったのは私なのだから。

それでも、もし今、あの頃の自分に会えるなら、失敗して怒られても、苦しくても、向いていないと思っても、大好きな著者に迷惑をかけたとしても、編集という仕事にしがみついていいんだよ、といいたい。そうすれば、いつかその著者に恩を返せる日が来ると思うから。
10年も20年も出版界で仕事をすれば、あなたの大切な、大好きな著者も、10年も、20年も、本を出せる可能性があるのだから。

反省文をつらつらと書いてしまったけれど、ひとつだけ、あの頃の自分を、認めてあげたい部分がある。

誰かを心から応援していたこと。
素敵な部分を見出して、「あなたは素敵だ!」と伝えて、味方になって、勇気づけて、その人が諦めないように、投げ出さないように、伴走しようとしていた、あの気持ちに嘘はなかった。

一生懸命ならなんでもいいとは決して思わないけれど、あの純粋だった気持ち、一生懸命さは、これからも心の底に持っていたい。


あと一年もしないうちに、私はまた働き始める。

結婚して、出産して、精神的にも大人になって、身も心も捧げきるような働き方は、もう良くも悪くもできないけれど、あの頃よりも、もっと柔らかく、長く、走り続けられる自分になったと思う。

本を読むことも、また好きになった。
こうして匿名でnoteに投稿することも、楽しみながらできている。

社会人人生は、まだまだ長い。
編集者という肩書きではなくても、世の中に何かを問うような仕事ではなくても、目の前の相手と手を取り合って、勇気づけながら働いていきたい。それを「続けること」の力強さもまた、信じながら。


私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。