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色々ありでいいじゃない。でも、それはなんでもありではない。


#多様性を考える

〜多様性について考える〜

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私は、何を考える時でも、基本的には色々ありでいいじゃない、と思ってる。

選択肢も、種類も、新しきも古きも、色々たくさんある方が楽しいしうれしい。

性のこと、恋愛結婚家族のかたちのこと、働き方のこと、生き方のこと、考え方のこと……いずれにしても全て、それぞれの想いは尊重されてほしいし、私も尊重したいと思う。

私自身が選択するものも、今とこの先10年20年後が同じでなくてもいいと思ってる。

……ただ、多様性が尊重されることは当然として、それが当たり前よと言われるようになってきたのはとても素敵なことだと感じているんだけど、ちょっと気になることもある。

①多様性を叫びながら、古い考えを否定すること

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これって、私にとっては違和感があって。

新しいスタイルに迎合できない方を否定して攻撃して排除しようまたは自分(たち)の考えを押し付けようとするのは、それは、【多様性の尊重】を叫ぶのなら、違うのではないですか?

従来型の考え方や意見、それに固執する人というのも包含してこその多様性ではないの?と、私は思うんです。

新しいことに馴染めない方々は新しいことを否定するかもしれない。でも、多様性を大切にする新しい流れでは、それに馴染めない人を否定して対立するのではなくて、「そういう人もいるよね、そういう人はそれでいいよ」と、それはそれとして許容してあげるべきではないの?

たとえば、「家事全般が得意。好きな人とは毎日できるだけ一緒にいたいから、結婚して家庭に入りたい」と思っている女性がいる時、「そうなんだ、私は家事が苦手だし人とずっと一緒に居るのもストレスだから、結婚という従来の形にこだわらないパートナーシップで、互いを大切にしあえたらいいな、今の仕事を続けていきたいし」……というようなところまではいい。でも、「もう!今時何言ってるの?今は女性も社会進出の時代なんだから、結婚にこだわる必要ないでしょ?家事だけしてればいいなんて甘えよ!」と否定してしまうのは、それは多様性ではないよね、と私は思う。

色々な考え、かたちを尊重しようよ。新しい流れに全員が乗らなくてはいけない、なんてことではないと私は思うよ。

あと、過去を遡って、今の基準に照らし合わせて咎めるようなことも、それも違うと思うんです。

昔の文学作品を引っ張ってきて、こん差別用語を使って!この作品は最低だ!と批判するようなのは、おかしいですよね。過去は過去。今となってはダメであっても、それを否定して消し去るのではなく、「これは過去のものでこの頃はこうだったのですね」という但し書きの下、そのままの形で残していくことも必要だと思うんです。

②色々あっていい、でも、なんでもありではないよね

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色々な選択があっていい、色々な考え方があっていい、人それぞれ違う生き方でいい。

だけど、忘れてはならないのは、「自由」と「責任」はセットだということ。

好きに選んでいい、というのは、その選択によって生じるデメリットや、従来型ではない選択をすることで果たせなくなる社会的責任をどうするのかという問題や、そういうものを自分で引き受けて、どう自分なりに責任持って向き合っていくのかまで、考えていく必要があるということ。

好きにやらせろ!でも責任は取りません!みんなが果たしてる社会的責任?そんなもの知りませーん!……ではただの子どもじみたワガママ、不良行為ですよね。

でも、そういう無責任や無関心がどんどん広がっているようにも思えるんです。

たとえば、「私は結婚しない。一生独身でいます。」その選択自体は、尊重されるべきだと思うし、問題があるわけではない。今はもう、そういう生き方も一つの選択肢だと思う。

でも、「少子高齢化?知りませーん、私結婚しないから関係ないもーん。子どもなんてお金はかかるわ自分の時間は減るわ面倒事は増えるわで何のメリットもないもーん」……では、無責任すぎない?

今の日本に暮らす以上、私たち全国民にとって、少子高齢化というのは、どうしても避けて通れない大切な問題です。単純に考えれば、今までのスタイルで適齢の男女が結婚して子どもを何人か産み育てなさい!と言うのが、具体的で最も効果的かつ分かりやすい解決策だと思う。

でも、それだと「結婚という選択をしたくない」人の気持ちは無視されてしまう。それは困る。

かといって、次の世代を産み育て知識や経験を未来へ伝えていくという大きな仕事を、それにかかる費用や労力や時間の全てを、結婚し子どもを持つ選択した家庭と教育業界にだけ丸投げして、自分達は自分にばかり好きなだけ時間もお金も労力も使いたい放題使って……というのは、問題じゃないかな?それが加速すればするほど、みんなより一層、結婚・出産・子育てへのデメリット感、負担感から敬遠するようになってしまうかもしれない。

外国人を呼べばいいじゃないと言う声もありますが、今の日本らしい文化や感覚・伝統等が生き残っていて、魅力的に思えるからこその日本人気であって、高齢化が進み活気がなくなり、介護を中心にした単なる労働力として来てくれ来てくれと呼ばれても、どれだけの人が希望持って喜んで来てくれるのでしょうか……見ず知らず縁もゆかりも無い他国の高齢者の介護を喜んで引き受けてくれる慈愛に満ちた人はどれだけいるのでしょうか。

結婚しない選択や、子どもを持たない選択、子どもができない組み合わせのパートナーを選択する……そういった、従来型ではない選択をする人達は、「では、子どもを持たない自分たちは、少子高齢化という問題や、未来へ今を繋いでいくという人としての仕事に対して、どのように向き合うのか、どのようなかたちで貢献していくのか、どのようにその責任を果たしていくのか」、これを、考えなくてはいけないのだと、私は思う。

すぐに答えは出ないでしょう。

単に「子どもを産み育てる」という選択よりもわかりやすく効果的な策は簡単には思いつかないではないでしょう。

でも、自由を選択するのなら、その責任として、考え続けることをやめないでほしい。

考える事を放棄するのなら、それは、「自由」ではなく、ただのワガママな「無責任」だから。


私はバツイチ子持ちだけど、子どもは一人……元夫と私の間に一人だから、二人から一人しか生まれていない以上、私も単純計算でいけば、社会的責任を果たしきれてない。

もうあと数年のうちに再婚・出産ができなければ、子どもを産み育てるということでの責任の果たし方はできなくなる。

私も、じゃあその後に、どうこの問題と向き合っていくのか、私に何ができるのか、考え続けていきたいし、考えるだけではなく、行動に移していきたいと思ってます。


一度きりの人生、せっかく多様性について、尊重されつつあるこの時代、色んな選択肢の中から、自分で決めることができる……ワクワクする楽しくて幸せな人生だよね。

でも、だからこそ、それがただのワガママではなく、自覚と責任を失わずに、自分さえ良ければいいではなくって、未来がもっと素敵になるように、今を繋いでいきたいなあと、思うのですよ。

今までの昔ながらの形も、絶滅して消え去ってしまうのではなくて、それはそれとして繋いでいけたらいい。選択肢の一つとして残り続けていい。(もちろん、差別的なものや暴力的なもの、非人道的なものは、記録としては残しても選択肢には入れてはならないけれど。)


自分の自由のために誰かに不自由を強いるとか、

自分の自由のために誰かにしわ寄せがいくとか、

そういうことがなくなるといいね。

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