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貝殻ばかりの箱のなかで(2)

(1)の続きです。


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「とても気に入りましたが、ただでもらうのは、気が引けます…」

本を持て余してもごもごと遠慮するぼくに、その人は言った。

「それなら、あなたに貸しましょう。ちょっと待ってて。」

店の奥に引っ込んだその人は、自分のものであろう黒いトートバッグを抱えて戻り、その中から全く同じ本を取り出して僕に渡してくれた。

「この本を気に入る人に出会いたかったんです。どうぞ。」

持っていた本を棚に戻し、手渡された本を両手で受け取る。本屋に来て本を貸してもらうとは思わなかった。

「となりの大学の学生でしょう。」と聞かれ頷く。

「桜が咲いたら、また会いましょう。感想を聞かせてくださいね。」

場所は、生協前でどうかな、と言われ「はあ」と曖昧に返事をした。そのとき店の電話が鳴り響き、「じゃあ、また」とその人は店の奥に引っ込んだ。呼び出し音が消えてしばらくその場で立っていたけれど、その人は戻ってこない。仕方なく本を持ったまま店を出た。来たときと変わらない曇り空の下を、呼吸を楽しむことも忘れて歩いた。アパートに帰り着くと、コートを着たままコタツにもぐりこんで本を開く。『貝殻ばかりの箱のなかで』は、何人もの恋人を同時に愛する生活に疲れた男が、海辺で貝殻を集める少女と出会い、惹かれていく恋愛小説だった。

人生を変えたいと安易に願って手に取った本が、男と少女の恋の話だなんて。そう思いながらも、ページをめくった。ひとつずつの言葉がリズムよく心に響いてくるような、軽やかな文体で綴られる物語。

気づけばもう20時で、一度本を閉じて冷蔵庫に向かう。すぐに食べられるのはチーズくらいしかなくて、仕方なくそれをかじった。そうしてまた、コタツに戻って本を開いた。

結局、夜中1時を回るまでページをめくり続け、眠気に負けてそのままコタツに突っ伏した。

次の日は土曜日で、バイトもないから一日中その本を読んだ。読み進めるごとに、主人公の男が古書店のあの人に重なる。

主人公も同じく本屋に勤めていて、黒縁メガネをかけている。ぼくに本を貸したあの人は、貝殻を集めては箱にしまっていく少女と出会った、まさに主人公なのではないかと思ってしまうほど、主人公の描写は古書店のその人とぴったり重なった。

物語の終盤、主人公は貝殻のしまわれた箱の秘密を知り、少女は自分を愛してなどいないのだろうと考える。そして、少女にこう言った。

「桜が咲いたら、また会いましょう。」

少女に背を向け、そのまま彼は海に飛び込んだ。彼女のくれた貝殻をポケットに入れたまま。

彼が海の泡となった後、少女は彼が飛び込んだ海に、箱のなかの貝殻をすべて捨ててしまうのだった。ただひとつ、彼のポケットにあった白く渦巻いた貝殻だけを持って、少女は海を去る。少女は貝殻を耳にあてて、目をつぶった。

ここで物語が終わっるのだった。

総毛立つ、とはこのことだろう。本を閉じて、呆然とするほかなかった。書店の彼は一体誰なのか、どうしてぼくに主人公と同じ約束をしたのか。もしかして彼はもう死んでいるのか。

桜はまだ、咲かないのか。

いてもたってもいられず、上着をひっつかんでアパートを出た。すでに日は暮れようとする時刻。体育館横の小さな門から構内に入る。土曜日の大学は部活かサークルに入る学生以外には縁のない、静かな場所のようだ。

脇目も振らずに生協前に向かって歩いた。木々に囲まれた道は薄暗く、背の高い街灯の存在を初めて感じた。6歩進むたびに現れるオレンジの光の、なんと心強いことだろう。空腹を思い出す頃、道がひらけて風景が変わった。

たどり着いた生協前の桜は、まだ小さなつぼみがついた程度で、近いうちに咲くようには思えない。周りには誰もいない。自販機と、すぐ横の蛍光灯が唸る音だけが小さく聞こえる。

桜が咲いたら、ここでまた会えるのだろうか。あの人に。

小説を読み終えて、ぼくはすっかり彼が死んだような気になっていた。

夕暮れの中、どうにもたまらない気持ちになって、学部棟に向かう。棟には入らず、その近くの門を出た。試しに吐いてみた息は、白くならない。マフラーのない首元を、昨日より少しだけあたたかくなった風が通り過ぎる。

古書店の前で、ぼくは肩を落とした。店内に電気はついておらず、すりガラス越しの店のなかは真っ黒な魔物が息を潜めているのではと思うほど、静かだった。

とぼとぼとアパートに帰った。コタツの上の本は、気に入っている雑貨屋の袋に包むことにした。出しっ放しだとなんだか落ち着かないから。

その晩は、誰にも話せない秘密を携えたまま、シャワーを浴びて、ベッドで眠った。

*

登校のたびに生協前の桜の木を見に行く日が三週間ほど続いた頃、とうとうその日が来た。ぼくしか気づいていないだろう、その木の第一号の桜の花が小さな枝の端っこに、小さく咲いたのだ。この日のために、あの本は毎日リュックに入れていた。三月が終わろうとしている。午後のゆるく眠たい空を見ながら、生協前の階段に座って、ぼくは彼を待った。ずっと待った。


新入生の姿を見るようになり、桜の木が満開を過ぎて葉桜になっても、ぼくは講義の合間をぬっては生協前で彼を探し、そして毎日ちいさく落胆した。やっぱり、彼は小説の幽霊か何かで、ぼくが行ったのは幻の古書店だったのかもしれない。そう思い立って何度か古書店に向かうも、いつ行っても店は閉まったままだった。びくともしないドアに、自分は何かに”ばかされた”のだろうと思案する。

講義以外に大学にいることのなかったぼくの毎日は、変わってしまった。生協前の桜の木が気になり、毎朝その日の天気予報が気になる。通りゆく人の顔も気になった。桜の花がすべて散るまで、と決めて、ぼくは生協前に赴き続けた。

そうしてまた一週間が経った。誰も気づいてないだろう、花びらはほとんどが雨風に落ちてしまい、この木に残る花はあとひとつになってしまった。生協前の階段に座って、今日こそその花が落ちてしまうのではないかと思いながら、ただただそのときを待っていた。

今日の空は、白い花びらがこんなに似合う色はないと思えるほど、ばかばかしいほどに濃い水色をしている。

びゅおっとひとつ風が吹いた。細かく揺れる花びらが一枚ずつ流されて行く。ああ、もう終わってしまうな。そのときだった。

「間に合いましたね。」

背後から聞こえた声に振り返ると、その人はあの黒いエプロンと黒縁めがねずっと前からそこにいたかのように佇んでいた。

「ほら見て、最後のひとつが。」

促されて桜の木に目を向けると、無風のなかで最後の一枚が静かに土の上に舞い落ちていった。くるくると回る白い花びらが、ただひとつだけ揺れながら地面に降り立つ。それを見届けて、再び背後を振り返った。そこには、誰もいなかった。

えっ、と声にだして立ち上がると、ころんと音がした。ぼくの座っていた階段の一番上に、手のひらくらいの貝殻が落ちていた。ぼくが小説を読んで思い描いていた、大きく渦巻いた真っ白の貝殻が。

ぼくのポケットから落ちたように見えるその貝殻を、右手で拾い上げた。恐々と、その穴を右耳にあてる。わあああんと響く音は、海の波音のようだ。

またひとつ、強く風が吹いた。散って間もない白い花びらと緑の葉が土から舞い上がり、スローモーションのように空中にとどまる。右耳だけに聞こえる声が、「あいしてる」と囁いた。

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おわり。





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