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無意味な雑談の意味 - Ska vi fika? -

お迎えの帰り道、公園へと引っぱられていく。いつもは「お腹すいた」とまっすぐおうちに帰りたがるのに、今日はいうことを聞かない。
こんなとき、時間がないとイライラしてしまう。でもふと、なにかお話したいことがあるのかもしれない、と感じて、「少しだけね」とついていってみた。

私に、フィーカという習慣がついたのは中学生のころ。母は私と過ごす時間を大切にしてくれいた。
フィーカは、スウェーデンの生活習慣で、同僚や友人、恋人や家族とコーヒーを飲みながら会話を楽しむ休憩時間をいう。雑談は、脳をリフレッシュし活性化させるといわれていて、日本でもフィーカを取り入れることで、業務効率の向上をはかる企業もでてきている。コミュニケーションにより、対人関係も築かれていく。
自分の子育てにも、フィーカは欠かせない。子どもと一緒におやつを食べながら、互いに今日なにがあったのかをお話しする。
私はお話しが好きだ。仕事先でも紅茶休憩をとり、コミュニケーションをとる機会が多い。秘書として働き8年。対面がメインの職業なため、コロナ禍でオンラインでのやりとりが多いライティングの仕事とは、ギャップを感じることがある。

子どもは、凝り固まっている私の考え方を、さまざまな面で180度変えてくれた存在だ。
幼いころから知育をして、教育ママになるぞ!という思いは、猛烈な痛みのなか出産をしたときから、なくなった。私とは別の、ひとりの個性ある人間が誕生したんだ、と感じたから。
入園時には、いくつもの園を見学し、できるだけ規律が少なく、アットホームで、のびのびと子どもを育てる方針の園を探した。この愛おしい小さな命が、楽しく幸せに、平和に無事に生きていけるのが1番。
"ちゃんとしつけなきゃいけない"ときはある。"みんなと同じようにできること"が求められることも多い。
でも、それが原因で個性をいかせなくなるほどに、"普通"を求められることは、大人でもつらかったりする。私はこの子の味方であり、息抜きでありたい。

入園したてのころはよく「今日先生に怒られたの」と言っていた。
この言葉を聞き出すにはコツがいる。
「今日の園はどうだった?」と聞いても答えてはくれない。幼いなりに気を使うのか、聞こえているはずの私の言葉を無視して、道路端の白線の上をケンケンパしながら、キャハキャハと遊んでいた。私は聞き方を変えるようにした。
「今日は公園行った?ぬり絵した?お友だちとお話しした?」
そのなかから、うん、と答えたものを具体的に聞いていく。そうして雑談をするうちに、いきなり聞いてもでてこない感情が、ぽろっとこぼれでる。まだ幼いSOSを逃さないための、大切なコツ。

「マスクとろっか」
私たち以外にだれもいない公園。また自由に人のあたたかさに触れられる社会に戻ったときのために、コロナ禍で育つ子どもにはできるだけ、目と目を合わせて、相手の表情を見ながら話すというコミュニケーションの基本を学んでほしい。
まっすぐおうちに帰らないことを選んだ子どもは、公園の時計の数字を石でなぞっている。
「なにか困ってることはある?楽しかったことはある?」
「ある。先生に怒られたの。お友だちと椅子とりゲームしたの楽しかった」
やはりお話したいことがあったようだ。

オンラインでの打ち合わせには、雑談がない。その時間に決めるべきことを話し合い、時間が来たら終了し、画面が消えたあとのコミュニケーションは存在しない。効率がよいようで、とても悪い。目線や声や表情も拾いにくく、特に初対面では人間関係の構築が難しいと感じている。
秘書の仕事のひとつに、採用面接への立ちあいがある。私は、緊張気味の面接者に対し、ボスが雑談をふるときが好きだ。場が和んでくると、面接者から、趣味や得意なこと、子どもが小さくて病気のときには急な休みをもらうかもしれないことなど、大切な言葉がもれてくる。直接業務に関係がなくとも、その人の能力や、置かれている環境、サポートの必要性を理解することは、人と人とが支えあって生きる上で重要なことだと思う。
今この瞬間だけの業務効率のよさは、長期でみてよいとは限らない。無意味に思える雑談や時間が、持続的な心地よい関係づくりに効いてきたりする。

強いときには、ひとりでも、どこででも頑張っていける。そうして次々になにかを求めてしまう。でも、生きていれば色んなことがある。
数々のライフイベントがあるなかで、私が働き続けることができたのは、あたたかい職場の人たちのおかげだと思う。弱っているときに、ここなら落ち着く、また頑張れかもしれないと思えるやさしい環境は、居場所になる。
ライティングの仕事も、顔と顔を合わせたコミュニケーションに変わっていくと嬉しい。ただのお客と依頼先ではなく、だれかがふと、ぽろっとなにか感情をこぼしたくなったとき、それが嬉しいことでも悲しいことでも、話しやすい状況になればいいなと思う。信頼には、雑談が一役買うことを、コロナは教えてくれた。

「なんで怒られちゃったのかな?」
石で数字をなぞることをやめた子どもが、私の目をみる。
「自分でやりなさいって言われたのに自分でやらなかったから」など、ちゃんと答えてくれることもあれば、「公園でジャンプしてたから」など、よく分からない回答がくることもある。そこには深入りせず、話してくれたことへの喜びを伝えることが多い。
「嫌なことがあったときはママにお話ししてくれたら、ママはいつでも味方するからね。楽しかったこともお話ししてくれて嬉しいよ」
なにが正解か、成長に合わせて模索する毎日だ。

「帰ってフィーカする?」
公園でも、お風呂でも、おやすみ前でも、子どもがふと思い出し、ぽろっと感情をだしたいと思ったときに、それを受け止められる状況でいたいと思う。日々の忙しさのなかで、タイミングを逃してしまわないように。居場所であれるように。

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