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名字と名前 - 多様性を考える -

現時点で、私の名字は4回変わっています。今の日本の制度において、母子家庭で育った人の多くは、この運命にあるのではないでしょうか。
だからといって、特に困ったことはありませんでした。強いていうなら、通帳やパスポートの変更と、転校のたびに所持品の名字の書きかえが発生したことくらいです。いじめられることもなく、先生とも、友人とも、幼いころからファーストネームで呼びあう文化のなかで生きてこられたのは、母の配慮のおかげかもしれません。

「〇〇さん、じゃなかった、ごめん、●●さん」
名字が変わると発生する、このやりとり。旧姓で呼んでから、新姓で呼びなおし、謝る。
正直なところ、名字で呼ばれることは苦手だったりします。私であって、私ではないような感覚になるからです。親や自分の婚姻状況が変わるたびに、おまけのように変わる名字に、アイデンティティを感じられずにいます。
私にとって名字は、所属みたいなものです。小学生のころ、中学生のころ、のように、そのころ私が属していた状況を思い出させます。旧旧旧姓で呼ばれれば、父がいたころの生活を、旧旧姓で呼ばれれば、母と苦労した生活を思い出し、旧姓で呼ばれれば、お仕事モード。今も、あまり自分が呼ばれている感じはしていません。

名字くらいで、深くとらえすぎ。そう思う人も多いでしょう。
周りにとっては小さなことが、毎日何度もその名で呼ばれる本人にとっては、大事なことだったりします。ここ数年、選択的夫婦別姓の話がでるようになり、私の気持ちも少し理解されることが増えました。
だれかの権利を奪ってまで、ワガママをとおすことはできません。でも、だれの権利も奪わずに、だれかの権利を認められることもあります。自分と違うもの、全てを受け入れなくたっていいです。ただ、
「そういう制度だから、そういう文化だから」
というしがらみで苦しんでいる人がいることを知るだけで、変わることがあります。

社会人だから、日本だから。
名字で呼ばれやすく、アイデンティティを守りきれないこともあります。この面において、私はマイノリティなのだと思います。
めんどうな人だなぁ。
もとが完璧でない私が、そう思われる要素を増やしてしまわないように。平気そうに返事をするとき、自分のなかの、なにかが少し削れます。
だれしも、なにかの面でマジョリティで、なにかの面でマイノリティでしょう。そして、マイノリティが武器になることもあれば、悩みになることもあります。

当たり前のように名前を呼び、安心をくれる人たちには、とても感謝しています。それだけで、私が私でいられて、今日も頑張れるのです。
みんな、それぞれが抱えるマイノリティな面において、悩みながら生きていると思います。社会との妥協点を探り、一進一退を繰り返しながら。でも、その努力への理解が、少しずつ広がって、新たな答えを導き出せたら嬉しいです。
いつか、だれもが自分らしく生きられるように。

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