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【不登校リカバリーCPC】娘の発達障害回復記録①診断を受けるまで

4歳で知能指数69と測定されてから、一般受験で都内の大学に合格するまでの娘の回復記録です。親である私が、なぜか根拠ない自信で、医者の言葉のその先を見つめてきたからこそ、今の娘がいるのだと感じます。必要とされている方の希望となりますように。

自己紹介

はじめまして。トラウマの癒しを提供するハートエデュケーションセンターの代表、川村法子です。チームでは、イーシャという愛称で呼んでいただいています。そもそも自身が、ACEスコア(逆境的小児期体験スコア)が高いトラウマサバイバー(トラウマを生き抜いた人)です。ざっくりとした自己紹介は、以下からご覧いただけます。


「自閉症です。一生治りません。」

現在、娘は、大学一年生。絵を描くことが好きなので、美大に行こうかと考えていた時期もありましたが、フランス革命あたりの歴史が好きで、史学も学びたいし、哲学も学びたいということで、それらが学べる学部を受験しました。

不合格となった大学もありましたが、結果的には、自分が望んだ大学の合格を勝ち取ることができました。何より、受験に向かうまでの本人の成長が凄まじく、出願校の選択から、願書の提出まで、全て自分で手配する姿を見ながら、私が娘の頃には到底できなかったな・・・と感心させられました。

今は、毎日たくさんの刺激や出会いがあって、本人もワクワクしてるんでしょう。帰宅が遅くなることもありますが、なるべく口出さないようにしています。娘が自分の力で飛び込んだ新しい世界が、ますます本人を成長させてくれることを信頼して、応援したいと思います。

さて、そんな娘は、4歳の頃にとある大きな病院の小児精神科というところで、「自閉症です。一生治りません。」と診断を受けました。当時の娘に起こっていたことは、以下のようなことです。

  • 言葉を話すのが遅い

  • 視線を合わせて、コミュニケーションしない

  • 癇癪がひどく、育てにくい

  • 母離れが遅く、一時預かりなども難しい

  • アレルギーがある(卵・大豆)

他にもあったかもしれませんが、当時、私たちは、親になりたてで、正直それが異常なのか、普通なのかもわからない状態です。18年前は、今のようにSNSも普及していなかったですし、情報ソースも限られていました。

そんな中、夫と一緒にインターネット上の「発達障害チェックリスト」で娘の状態をチェックして、「チェックが4つだから、発達障害ではないんじゃない?」とか、「いや、4つもつくんだから、発達障害なんじゃない?」とか、「もしかしたら、4つじゃなくて、5つつくかも?」「いや、これはそうでもないから、3つかもよ?」とか、そんな無意味な議論を、日々繰り返していました。

正直、この時期が、最も不安でした。

暗中模索の日々

2歳検診に行った時に、小児科医が怪訝な顔をして、発達検査に行った方がいいと勧めてきたことを思い出します。診断を受けるのはとても怖かったですし、それまで、私自身が病院で嫌な思いをしてきたこともあって、医者の言うことは信じたくないと、それからは病院を避けてきたように思います。

4歳になって、幼稚園に入園しました。入園式では、受付で先生が「お名前は?」と聞き、名前を答えたら名札を渡すという儀式があることを知らされていました。

ですが、その時点で、そのコミュニケーションができないのは明らかでした。前日まで、一生懸命、夫が、娘と練習していました。

夫「お名前は?」
娘「おままえは?」
夫「ちがうよ。名前を答えるんだよ。」
娘「・・・」
夫「△△(苗字)○○(名前)って言ってごらん?」
娘「○○ちゃんです。」
夫「そうそう!できたね!」

と、こんな会話が繰り広げられていました。娘は、自分の呼び名はわかっていたようですが、フルネームは言えず、また、聞かれた質問に答えたり、言葉を正確に発音するなど、年齢に沿った能力を獲得していないことは、明らかでした。また、質問された時に、意味がわからないと、質問をおうむ返しをすることがありました。

入園式では、無事に受付を済ませましたが、園側も娘の状態を考慮してくれて、優しく名札を渡してくれたのでした。

無事に園には通いましたが、娘が指示を理解していないことや、お話が上手にできないことから、園側が発達検査を受けるように勧めてきました。

園から要請があったことで、保健所に行きましたが、そこから小児精神科を受診するまで、約半年ほどかかりました。とても混んでいて、すぐに受診できないというのが当時の状況でしたが、今はどうなのでしょうか。

診断結果を受けた時

2、3分ほど、娘を診療室で見て、「自閉症です。一生治りません。」という診断をした医者は、とても若い医者でした。シーンとした無言の時間が流れる中、彼は「原因もわかりませんし、治療方法もありません。」と言いました。

今思えば、その医者の言葉のチョイスは、親を絶望の淵に落とし、希望を失わせるような、とても衝撃的なものでした。ですが、私たち夫婦は、心の底から安心しました。

「ああ、やっぱり」

それが、私たち夫婦の感覚でした。

これまで、何年も暗中模索の不安な日々から解放されたような気持ちでした。娘の特性を異常だとか、個性だとか、普通だとか、答えの出ない議論を何年もしてきたわけです。

一つの結論が出たことで、「じゃあ、ここからやれることをやっていこう!」という、そんな気持ちが出てきて、むしろ、希望が湧いてきました。

微かな光

話は、少し変わりますが、娘の回復記録を記す上で、書いておきたいことがあります。それは、私自身が受けてきたセラピーについてです。トラウマを癒すインナーチャイルドワークに、私はトータル5年ほど通いました。

私がセラピーを受け出したのは、娘が2歳の時でした。つまり、娘が診断を受けた4歳の頃、私は2年ほど、すでにセラピーを受けていたことになります。当時の私は、夫婦関係や育児に行き詰まりを感じていて、すがるような思いでした。

セラピーを受け出してから半年ほどたった頃、10歳から続いていた便秘症が改善していることに気が付きました。そして、1年経った時には、便秘はなくなっていました。2年経った頃には、自分がかつて便秘だったことすら忘れていました。

私は、過去のトラウマの癒しが、実際に自分の身体まで癒してくれていることを実感していました。なぜこんなことが起こるのか、科学的な根拠を知りたかったのですが、当時は、そのことはわからないままでした。(今ではトラウマの科学、つまり、脳神経科学が説明しています。)

当時の私が、体験していたのは

  1. わざわざアメリカまで行ってトラウマの癒しを勉強してきたセラピストが目の前にいること

  2. そのワークが効果的であることが、現地では体験として証明されていて、専門家が教えていること

  3. 私自身が、心身ともに実際に健康になっていること

これらは全て、根拠はないかもしれないけれど、私のリアルな体験でした。

そして、何より、驚いたのは、私がセラピーを受ける過程で、娘の大豆と卵のアレルギーが改善していったことでした。これが、母親の私のセラピーで改善したという証拠はどこにもありません。娘自身の成長によってアレルギーが克服できたのかもしれません。

ですが、私にとって意味があったことは、「頑張る母親を演じるために、親である私が、娘のアレルギーを必要としていた」という私自身の気づきでした。そして、もう頑張る母親をしなくてもいいんだと気がついた頃から、娘のアレルギーは改善してきました。

正直、アレルギーが治ったのだから、何のおかげ治ったかなんて、どうでもいいことです。

ただ、私という一人間の人生という物語において、この気づきはとても大切であり、娘のアレルギーが治ること以上に、私の人生の可能性を広げてくれたのでした。

私は、セラピーによって自分を取り戻しました。娘が4歳で「自閉症です。一生治りません。」という診断を受けた時、私が前向きでいられたのは、セラピーのおかげです。

絶望して、悲観したり、診断名に囚われて、娘の成長を信じなかったり・・・そんな状態に陥ることなく、「最大限にやれることをやっていこう!」という、今思えば無謀とも言えるコミットメントができたのは、私がその時点で、自分への信頼を取り戻しつつあったからでした。

続く

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