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表現活動において、唯一無二のイマ(162/365)

「書くのはいつでも出来るでしょ〜」

「休みなんていらないでしょ〜」

書くことを始めてから、こんな事を言われる時がある。

(いや、違うんよ…)

そう思うけど、これをうまく説明できない。

そりゃパソコンかスマホさえあったら、場所も時間も選ばない。

日を改めたとしても、書こうと思ったことについては書ける。

しかし、その時その瞬間に感じたインスピレーションは二度と戻ってこない。

だから、いつでも書けるわけではない。

イマが大事なのだ。

完成度がどうとかではなく、イマを残すことに意味があるのだ。

休みに関しても、余暇があるから沸き起こるものがある。

散歩していたり読書していたりダラダラしていたり、そんな無駄とも思えるような時間こそ大事なのだ。

 

これでもうまく説明できている気がしないが、このことを動画クリエイターの友達に話したら、結構共感してくれた。

僕も一応書くことを自己表現の一種としてやっていて、その人も動画を生業にしている。

その他にも、踊る・歌う・描くなど多種多様な手段を用いてクリエイターやアーティストとして表現活動を行っている人がたくさんいる。

もちろん時間を掛ける事でよりよいアイディアが生まれたり、ブラッシュアップされていったりして完成度が高くなることもあるだろうから、それも大事だ。

しかし、その根底にあるのは、二度と戻ってこないイマに感じたものだと思う。

歌を聞いていても、「その表現どうやったら出てくるん?考えたからって出てくる歌詞じゃないやろそれ…(知らんけど)」とその感性に驚かされることだってある。

流れている川から掬った、そのひと掬いが貴重なのだ。

ほぼ同じ水はまた掬うことは出来るが、それはあくまでほぼ同じで全く同一ではない。

 

今日も久々に色んな人のnote記事を読んでいて、その人視点でのものごとの見方に学びを貰い、バイブスが上がってきた。

そして書きたい事がたくさん浮かんできたのだが、頭が溢れかえってしまって大渋滞になりかけていたので、一旦整理するためにジムに行った。

そしたら整理はされたけど、その時の熱は冷めてしまった。

おそらくその時浮かんでいた事について書くことは出来るが、その瞬間感じた事とはまた違ったものになるはずだ。

別にそれが悪いとかではなく、また浮かんできた時に書けばいいし、そのインスピレーションを大事にしたい。

だからその結果イマ感じていることを、こうやって書いている。

 

そしてその共感してくれた人とも話したが、コレを論理で説明して理解を求めることは無理なんじゃないかとなった。

別に理解してもらおうと思っている訳でもないが、大前提として他者のことを理解するなんて不可能なのだから、これは伝わらなくて当たり前でしょうがないこと。

それを受け入れていくしかない。

誰も悪くない。

ん?

着地点が分からなくなってきたが、とりあえず、イマ感じていることって儚くてめちゃくちゃ貴重だよねって話。

 

イマを残すことに意味がある。


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