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【連載】「いるものの呼吸」#1 幽霊とわたし

 幽霊、場所、まだ生まれていないもの――。目に見えない、声を持たないものたちの呼吸に耳を澄まし、その存在に目を凝らす。わたしたちの「外部」とともに生きるために。
『眠る虫』(2020年)、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)など、特異な視点と表現による作品で注目を集める映画監督・金子由里奈さんの不定期連載エッセイ。

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 小さい頃、見えないものの気配にもっと怯えていた。なにかに見られている気がして、悪さの手を引っ込めたりすることがよくあった。透明から向けられる視線があるということをわたしは「知っていた」のだ。「知っていた」はずの透明を、わたしはいつの間にか失くしかけている。見えることや事実に権威がある社会で、なんの科学的根拠もない、透明な存在たちの居場所はなくなっていく。透明な存在たち。仮にそれらを「幽霊」と呼ぶ。
 幽霊という概念がこの世からなくなってしまったら。明日ふつうに目覚ましはなり、電車は動く。わたしは働くだろう。でも、つまらない。つまらないと感じてしまう。それはどうしてなんだろう。わたしはどうして、幽霊が必要なんだろう。

 幽霊とわたしのこと。幼稚園の時、友達家族とみんなでキャンプに行ったことがあった。星がちりになって夜のパノラマを覆っていて、なんか汚いなと思った。大きなテントで地面の硬さを感じながらみんなで雑魚寝した。朝になって、友達とふたりでキャンプ場を散歩した。背の高い木が生い茂る中で、まぶしい光が丸い窓を作っていた。
「なんかいる」
 気づいたのは友達の方だった。名前は確か、ヨウタロウ。ヨウタロウの人差し指の先にそれはいた。
 汚れひとつない、白馬だった。白馬は発光していて、まぶしくて。
 今こうして思い出して書いていると、あれは現実に起きたことなのかよくわからない。記憶は輪郭がないまま浮遊して、なんとかかき集めているうちに、さいきん考えていた美味しい火鍋の作り方とか、今撮りたい映画のこととか、一緒くたになって実際の過去はクスクス笑っている。
 でも、確かにみた。あまりにも眩しくて目を塞いだ。それ以上近づけなかった。白馬は生きていたけど、そこに屹立して立派に呼吸をしているだけで、派手に動いたりすることはなかった。
 ヨウタロウとわたしは一緒の心臓になって、一緒にバクバクしているのを感じていた。見たよね、みたみた。一緒にテントに戻る途中、ヨウタロウが言ったのだ。
「あの人、喉乾いたって言ってたね。なんか持ってきてあげようか」
 いまはホラーセンサーがピンっ!って立って、嬉々としてゾッとするけれど、あの時はよくわからないまま、ヨウタロウが何かしてあげたいことがあるなら、それについていこうと思った。
 コップにひたひたの飲み物を入れて、また森に戻ると、そこには木が風と一緒になって騒いでいるだけで、何もなかった。白馬がいない。ヨウタロウも、ヨウタロウが見てた何かがいないと思っていた。というか、さっきは見つけられなかったアスレチックがあった。
 わたしとヨウタロウはそのことをスイッチ切り替えるみたいに忘れてアスレチックで遊んだ。

 幽霊とわたしのこと。わたしが中学生になった頃、祖母が亡くなった。もう、わたしのこともよくわからなくなっていた祖母に、おろしたての厚紙みたいに硬い制服を着て見せに行ったら「ゆりなちゃん、似合うね」と言っていて、それが嬉しかったのを覚えている。
 わたしは祖母に思い入れというか、そういうものは正直なかった。 祖父母の家に行くのは毎回すごく緊張していたし、政治の話はよくわからなかった。おばあちゃんという言葉のなかにいた人が亡くなってしまって、おばあちゃんのなかに誰もいなくなった。
  祖母と話したいと思うようになったのは、わたしが映画を撮るようになってから。祖母が死んで10年すぎた頃だった。記憶と語り合うには限りがあった。幽霊はいつだって生者のためにある。わたしは祖母の幽霊を作ることにした。
 幽霊の作り方。まず、死者の記録を集める。祖母が残した絵を見て、家計簿を見て、映像を見た。親族から祖母のエピソードを聞いた。
 祖母は道端に咲いている雑草を見つけると、隣に座り込んで「わたしが描いてやろう」と呟いてスケッチするような人だった。一方で、祖母はアナキストだった。家族で父の映画ヒット祈願をした際、ひとりだけ達磨に「国家大乱」と書いたという。わたし自身の心と、祖母のイメージが重なる部分がある。そこを見逃さない。それが幽霊の輪郭となっていくからだ。
 幽霊が語り出す。わたしが作った祖母が語り出す。今度はどんな映画を撮るの?おばあちゃんと話す映画を撮ろうと思う。へえ、そうなの。なんていう映画なの?『眠る虫』っていうタイトルはどう思う? 眠る虫、どうして?
 死者の魂とか、記憶は、虫みたいにあちこちに浮遊している。それは眠っているだけで、生者が語りかければいつでも起こすことができる。今こうしておばあちゃんと話をしているように。
 生者中心主義だと幽霊が怒っているかもしれない。死んだ祖母はわたしが映画を撮っているなんて知る由もないし、何を勝手にと怒っているかもしれない。でも、わたしには祖母の幽霊が必要だったのだ。物語が必要なように。それだけである。

 幽霊とわたしのこと。突然だけど言わせてほしい。わたしは場所のことが大好きだ。場所という健気な存在。いつもありがとうと思っている。
 京都みなみ会館が9月末に閉館した。みなみ会館は『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』をロングランしてくれた場所でもあるし、大学生の頃のわたしの記憶を記録してくれている場所だ。
 移設前のみなみ会館、オールナイトで『ハッピーアワー』を見て、眠さと興奮に引き裂かれそうになった肉体をなんとか吉野家まで運んで、牛丼を食べた。タルコフスキー特集がやっている正月は通って、何度か映画部の先輩にあった。移設した後、『れいこいるか』を見て、映画がわたしを放任してくれているとはじめて実感し、それが嬉しくて泣いた。他にもたくさん。たくさんある。それはわたし以外もそうだろう。
 閉館する1日前、わたしはみなみ会館に足を運んだ。『イノセンツ』を観て、久々に映画館で映画を見る辛さを思った。友達に映画が嫌いな人がいて、「拘束されるから無理」と言っていたのだけど、そのしんどさを感じた時間であった。
 映画を見終わって、一緒に来ていた友人としばらく、時間がなくなるほど映画館を見ていた。そのときは、バスの出発時間とか、チェックアウトの時間とか、そういうことがこの世に存在しなかった。場所と私たちがあるだけだった。場所と私たちにすっぽりと大きなシーツがかぶされて、そこで静かに目と目を合わせているように。
 場所の幽霊っているのだろうか。心霊スポットはあっても、スポットの幽霊って聞いたことがない。大林宣彦の『ハウス』とかは場所の幽霊が襲ってくる話だったっけ。

 幽霊とわたしのこと。わたしは幽霊になった。幽霊のいいところはタイムカードを切らないところ。幽霊になる前から、時間には反対していた。時間が刻まれるから、合理的で早い解決が求められ、序列が作られ、そこから取りこぼされていくものたちがいる。幽霊には規範的な時間が存在しない。わたしそのものが時間になる。なので、ふと思い出すように過去(便宜的に「過去」と使っているが、もはや「過去」でもない)に行けるし、過去が突然今に沸き起こる時もある。この特性は「映画」にもよく似ている。
 幽霊は会いたい人にすぐに会いに行けるので「会いたい」という気持ちを歌う恋愛ソングは一切流行らない。でも、会いたい人に会いに行っても、見られることがたまにしかない。だから「見られたい」という気持ちを歌った歌が幽霊の間では流行っている。
 みる一方の、わたし。ソファに座って、首こりを親指で消滅させようとしながらタイピングをしている人がいる。こちらはじーっと見ているが、少しも気づいていないようだ。話しかけてみる。「おーい」ふと、その人が首を右に180度ゆっくり回す。一瞬、目があった気がする。すると、その人は耳鳴りがしたようで、眉間にシワを寄せて目を瞑っている。あ、いまあの人と、目があったからかも。
 幽霊は場所もすぐに移動できるかというと、そうでもない。幽霊はその場所に半分足が埋れていたりするので、それを引っこ抜くのに時間がかかる。後は自分の記憶が何らかの形で残っている場所にしかいくことができない。マチュピチュに行ってみたいと思ってもいけないのだ。どこでもドアではなく、記憶がドアとなる。
 ここにいるのに、いないとされていて、寂しくなる。たまにいることが発覚すると、酷くびっくりされてしまう。いるだけなのに。不思議である。
 幽霊になって、一番楽しかったのはこれまであんまり喋らないタイプの人と話す機会が増えたことだ。それはわたしがいる場所に、もう満員電車のように幽霊がいるからである。どの時代の人もいて、わたしはたまにそういう人たちと話す。
 一方で、幽霊の生活にも課題がある。それは眠る場所である。幽霊だって、眠くなるのだが、場所が渋滞していて心地よい睡眠ができないのが悩みだ。最近では幽霊のカプセルホテルみたいなのも、そこで寝る人も増えている。
 幽霊になったので、とある映画を見にきた。生きている時は見られなかった映画だ。こういう特別な体験もあるのがうれしい。幽霊の映画館は上映時間がないので、真っ黒なスクリーンにそれぞれが見たいものを投影する。たくさんの他者と同じ時間を共有する生前の映画館はそれはそれで特別だったように思う。

 やっぱり、幽霊がぱったりといなくなってしまった世界はつまらない。幽霊という外部が「いる」ということが、想像のゲートとなって、息がしやすくなる瞬間がある。幽霊が実際存在するとか、しないとか は大した問題ではない。わたしには霊感がなくて、一生幽霊を見ることができなくても、それでも幽霊という存在を心から願っている。
 ここにいないもの、かつていたもの、生まれなかったもの、見えないもの。今見えているもののちょっと先まで、視線をむけてみたいのだ。わたしと幽霊の話はもう終わりにして、あなたと幽霊の話をコーヒー何杯分も聞いてみたい。

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著者:金子由里奈(かねこ・ゆりな)
東京都出身。立命館大学映像学部在学中に映画制作を開始。山戶結希 企画・プロデュース『21 世紀の女の子』(2018年)公募枠に約200名の中から選出され、伊藤沙莉を主演に迎えて『projection』を監督。また、自主映画『散歩する植物』(2019年)が PFF アワード 2019に入選し、ドイツ・ニッポンコネクション、ソウル国際女性映画祭、香港フレッシュ・ウェーブ短編映画祭でも上映される。初⻑編作品『眠る虫』(2020年)は、MOOSIC LAB2019においてグランプリに輝き、自主配給ながら各地での劇場公開を果たした。初商業作品『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)は、大阪アジアン映画祭、上海国際映画祭で上映されるほか、第15回TAMA映画賞最優秀新進監督賞を受賞した。

バナーデザイン:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)


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