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昭和をカタルシス[9]タコのウチ風呂

今でこそ、家にお風呂(内風呂)がある事は、ごく普通だが、内風呂が普及したのも、前記のダイニングテーブルと同じく戦後、住いの洋風化を進めた、日本住宅公団のお陰である。

テレビの普及と共に、外国のテレビドラマに映し出される文化的でゆとりのある生活=アメリカンライフへの憧れも人々の間に、どんどんと高まっていった。

そんな背景の中、より、質の高い住まい方の提案として、公団は、寝食分離をめざすダイニングキッチンと、浴室のある住宅を大量に供給。
人々も憧れをもって買い求めた。その結果、昭和30年代は「内風呂化の時代」と言われた程、内風呂が増え、昭和38年には全国での普及率が6割となった。
それまでは、銭湯か行水で済ませていた家ばかりだったようで、確かに、人々の暮らしの質は、急速に高められていった。


そう云えば、昔の家にも内風呂はあった。
家の中でなく外に。昔の家は京町家と似て、うなぎの寝床のように奥へ深かった。店から上って居間を通り、台所を抜けると庭へと続いている。
今なら「店舗付き2階建4DK(トイレ付)+庭(バス付)有り」と、物件紹介がされるのかもしれないが、風呂は庭の中にあった。

台所から庭へ下りてすぐ右。トタン屋根の小屋が建っている。小屋の戸を開けると中に、四角い木製の風呂が据わっていた。
割と頑丈な作りで、風呂内部に湯沸かし器がビルトインされ、点火作業は外で行われる。排気ガスは風呂の天端から伸びた煙突が外まで続き、屋根よりも高い位置で排出される。
いま思えば、風呂小屋としては結構、良い作りだったようだ。

風呂は全体が檜で、良い香りがした。
風呂から突き出た煙突の横には、湯箱があり、中にはかけ湯用の湯が入っている。床はスノコが敷かれ、壁はタイル貼り。その上は白壁である。

湿気を逃がすためか、大きな両開きの硝子窓も備わってたが、 開口部が広く、寒い季節の保温性はあまり、よろしくない。
夏は夏で、室内の熱気を下げるため、半窓にすると蚊が入り、 汗臭い子供のやわ肌は、蚊にとって、恰好のデザートだった。

入浴の時、子供は台所で服を脱ぎ、そのまま風呂小屋へ直行。
抜け殻の服は、母が、裏にある洗濯機の中へと落としてくれた。

微妙な温度調整が難しいのか、江戸っ子の気質か、お湯は熱い。
熱くても、湯ざめするからと、しっかり肩まで湯に入れられる。

やたら長~く音を伸ばし、イ~チ、ニィ~、サ~ンと、数え、 トォ~で、また“オマケのオマケの汽車ポッポー”のダメ押し。
ほぼ、ユデダコ状態で解放される “ど根性風呂” であった。

そんな内風呂が存在したのも、たぶん小学生になるまでの事。
湯沸かし器が壊れても、修理がされなかったのか、風呂小屋は、 そのまま物置に変り、家族は皆、さすらいの銭湯人に戻った。


昨晩の湯を流し、浴槽を洗い、水をはり、点火ボタンを押す。
ほぼ日課となった簡単な作業だが、思えば、こんな内風呂にも、泡と消せない記憶が、浴室に反響する数え唄と共に蘇ってくる。

“オマケの汽車ポッポー。ポーっと鳴ったら、ハイ、お終い”寒さ厳しく、湯の愛しい季節ゆえ、思いもひとしおである。

(2013年12月20日 記)

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