情況についての発言(5)――文芸批評の現状

 ここ近年、文芸批評への風当たりが強いとよく聞かれる。もちろん、それは範囲を広げて、批評一般にも当てはまることであるが、批評一般への悪評としてよく耳にするのが、「批評は嫌われる」、「批評界隈のジェンダー・ギャップ指数が悪い」、「批評家は作家の意図等々を無視する」といったものであるように思われる。
 「批評は嫌われる」とはどういうことか? これは、二通り考えられる。一つは、読者からのものであり、もう一つは、批評対象となった作品の作者からのものである。読者から見て批評文の文面はやや暴力的に見える。その内容は批評対象を肯定するとは限らない。いかに柔らかく書かれていようが、否定的に書かれた部分は、読者の怒りを誘発する。だが、それは批評に需要があるかどうかとは別のことである。肯定的な部分の比重が多かろうが、逆に、否定的な部分の比重が多かろうが、注目を集められたり、需要があったりすれば、それだけで当然のように批評は生き残る。ヒエラルキーの頂点に位置するようになった批評家が、「批評は嫌われる」だとか、「批評は今は人気がない」だとかを殊更に強調して発言しようが、それは自分自身への注目を集めるためであり、かつ、自らの後を追う批評家群を駆逐できる。彼の目的は富の独占である。私達はそのような言説など気にせず、コツコツと自らの仕事を進めて、需要に応えるように作品を供給するだけである。
 「批評界隈のジェンダー・ギャップ指数が悪い」といった指摘について、私の印象ではあるが、範疇を文芸批評に限って見てみれば、男女比のバランスはだいたい拮抗しているように思われる。だが、範疇を拡張して批評一般に眼を向けてみると、極端に偏っているように見える。指数の悪さということで特にクローズ・アップされるのが、各々評論賞の選考委員の男女比のバランスの悪さである。かつて講談社が刊行する文芸誌『群像』誌が、小説部門と評論部門と2部門だった新人賞から評論部門を独立させ、文芸に関するものに限っていた批評対象を拡大させたことがあったが(2015年)、それまで小説家がメインの選考委員を代えて、文学を多少かじったぐらいの人文科学系の物書きが代わりの選考委員となった。当時この様子を『群像』誌を通して見ていたが、私はなぜこんなことをするのだろうかといった印象を持ったものである。ただ、この頃の文芸批評においてなかなか見込みのある書き手が現れないこと自体、私も薄々感じていた。恐らく評論部門の独立は、当時において文芸批評の活性化を狙ったものと思われる。数年後に選考委員のてこ入れが行われ、文芸作品を主に批評する書き手2名が、退任した人文科学系の物書きの代わりとして選考委員となったが、代わろうが代わるまいが男性のみの選考委員であることに変わりはなかった。独立前のほうがバランスが取れていたぐらいである。
 2017年には、集英社が刊行する文芸誌『すばる』誌において、すばるクリティーク賞という評論の新人賞が創設された。選考委員には、文芸作品を主に批評する物書き3名が選ばれ、他にゲストが1名加わり、受賞者の選考が行われた。受賞作の批評対象は文芸に関するものに限らず、実に様々であるが、個人的には、選考委員の3名が主に文芸批評を主戦場とする物書きであるという点で、一部の気に食わない人物はいるものの、『群像』誌よりも好感が持てた。とはいえ、こちらも女性の選考委員は皆無であった。批評界隈において活躍する女性批評家の数にだいたい見合うような形で選考委員に迎え入れて欲しいものである。
 批評文を書くことは、非常にしんどい作業である。まずは資料を用意しなければならない。場合によっては、その量が膨大になることもある。そして、その用意した資料を徹底的に読み込まなければならない。そうして得られた諸情報を利用しながら、批評対象を論理的に批評していく。物を書くだけでも相当な体力が要る上に数多くの資料を読み込まなければならない。研究ならば時間的なゆとりも考えられるが、批評となると時事的な側面が要求される場合もあり、物を書くスピードも必要になってくる。これがすべてとは思わないが、女性が批評に取り組むことを敬遠する原因の一つとは考えられうる。言うまでもなく、男性にとっても非常にしんどい作業である。これが原因であるならば、批評の前提の事柄である以上どうすることもできない。せいぜい、体力をつけて、体調に気をつけながら資金を集め、その資金で資料を収集すること等々と助言をすることが精一杯である。
 「批評家は作家の意図等々を無視する」とは? これは、「批評は嫌われる」とも関わる。つまりは、先に言及しながら掘り下げなかった批評対象となった作品の作者からの嫌悪のことである。ただ、これには仕方がない面もある。あえて作者の意図を無視して論述する批評家は除くが、作者が自作の意図を対談やインタビュー等々でなかなか公開しない場合、評者は作者の意図を想像するしかない。作品が新刊の場合は尚更である。そのような時に原稿を依頼された場合が非常に困る。作者の意図が公開される前に、原稿を仕上げなければならないからである。とはいえ、批評そのものに需要があり、その内容が悪質でない限りは、どんなに批評文の内容に文句があろうが、批評対象となった作品の作者は、作品の売れ行きを見込んで、批評文の内容をあえて黙認し、それを利用することも考えられる。つまり、ビジネスライクである。ただ、それは先にも言ったように批評に需要がある限りのことである。
 以上のような批評一般に対する悪評は別に聞き流しても構わないが、それは批評に必ずついて回るものであるからであり、先にも言ったように私たちはコツコツと自らの仕事を進めて需要に応えるように作品を供給するだけである。
 とはいえ、文芸批評、または批評への風当たりの強さを象徴するような出来事が、昨年から今年にかけて起こった。それは、商業的な文芸誌において、評論部門の新人賞が相次いで休止となったことである。2021年に群像新人評論賞が休止となり(『群像』2021年12月号)、間を置かず2022年にすばるクリティーク賞が休止となった(『すばる』2022年2月号)。この後者のすばるクリティーク賞の休止をもって、商業的な文芸誌から評論の新人賞が姿を消すこととなり、これらの出来事は批評家を志す物書きに大きな衝撃を与えた。批評家への道を閉ざすような出来事だったからである。
 まずは、群像新人評論賞の休止の理由についてであるが、それは評論の新人賞のあり方を再考したいというものである(「編集後記」、『群像』2021年7月号)。それは、今の仕組みをも問うことでもある。なぜ、このような事態に至ったのであろうか? 私の印象を語ってしまうことになってしまうが、『群像』誌が2015年に評論部門を独立させたことは先にも少し言及した。独立前はどのようなものだったかと言うと、批評対象はおおむね文芸に関するものに限定されており、小説部門も評論部門も同じ選考委員が選考にあたっていた。選考委員には言うまでもなく小説家も含まれ、これも言うまでもなく女性の小説家も評論部門の選考にあたっていた。批評対象がおおむね文芸に関するものに限定されている以上、選考に小説家があたろうが問題はないと私は考えている。だが、評論部門では優秀作は毎年出るものの、当選作がなかなか出なかった。そのような経緯もあってか、2015年に評論部門が群像新人評論賞として独立し、批評対象も拡大され、人文科学系の物書きが選考委員となった。これはあくまで私の推測であり、先にも言及したことである。
 独立後の印象を述べると、応募数が大幅に増え、優秀作の内容も非常に興味深いものとなっていた。とはいえ、当選作がなかなか現れない。選考委員の求める水準が高過ぎるのか、商業的に見込みのある書き手がなかなか現れないのかはよくわからないが、当選作のある年よりもない年のほうが多かった。2019年、2020年と、2年続けて当選作なしに終わり、各界でジェンダー・ギャップ指数の悪さが叫ばれるようになって、文芸界のみならず、論壇においてもその声を無視できなくなっていた。あくまでこれも私の推測に過ぎないが、こういった事情から『群像』誌は、現行の仕組みをも含めて、評論の新人賞のあり方を再考する判断に至ったように思われる。選考委員のジェンダー・バランスの悪さを気にする選考委員もいない訳ではない。次のような選評の一部分を引用しておく。

 群像新人賞から評論部門が独立してこの七年、選考委員はずっと男性ばかりだった。それは受賞作ばかりでなく、そもそもの応募作にも偏りを生んでいたにちがいない。本賞が休止から回復するときには、選考委員のジェンダーバランスも回復することを強く望みたいと思う。
(東浩紀「選評」、『群像』2021年12月号)

 東浩紀氏がこのようなコメントを残すことは私には意外に思われたが、その前のコメントから察すると、女性の応募者の作品の判定に自信が持てなかったように思われる。また、東氏は選考委員の顔ぶれが応募作の内容にも影響を与えてしまっているのではないかと気にしているようでもある。これについては、選考委員を責める訳にはいかない。信頼が大きいと思われる商業誌において新人発掘の大役を任される以上、当選作を選ぶ上で誰しもが納得するような判定を心掛けなければならないが、選考委員であっても人それぞれ独自の批評、または思索の背景がつきものであり、それが公正な判定においても顔を覗かせる。これは、いくら努力して抑えようとも避けられないものである。そして、この避けられない背景が選考委員本人の意思とは無関係に応募作の内容に影響を与えてしまうという訳である。選考委員はあくまで会社側から依頼されて仕事を引き受けるだけであり、人選の責任はあくまで会社側にある。
 群像新人評論賞の休止前の最後の当選作、優秀作を読んでみたが、2作品とも非常に素晴らしい内容であった。それらは、選考委員も認める通り、非常にレベルの高い2作品であった。私も同感である。最後の最後でのこのような結果は、極めて皮肉ではあるが。ただ2作品とも文芸批評としてどうなのかと思うところはある。総合誌各誌が批評全般の新人賞を創設して新人発掘すべきであると思うのは私だけであろうか。
 とにもかくにも、群像新人評論賞の休止の理由はあくまで現行の仕組みをも含めた評論の新人賞のあり方の再考であって、今回の休止はそう長くは続かないだろうと思われる。独立前の仕組みに戻すのか、現状維持のままなのか、現行の仕組みのまま女性の選考委員を迎え入れるのか、今後どのような仕組みになるのかはわからないが、私としては独立前の仕組みに戻して欲しいものである。私は応募しないと思うが。
 次に、すばるクリティーク賞の休止の理由について触れていきたいが、先にも言及した通り、『群像』誌が評論部門を独立させたことに触発されたのかどうかはわからないが、2017年に創設された評論の新人賞のことである。翌2018年に『すばる』誌2018年2月号において第1回目の受賞作が発表され、以後も応募数はそう多くはないものの、ほぼ毎年受賞者を輩出してきたが、今年(2022年)、わずか5回の開催をもって休止となった。受賞作のレベルが高く、順調に回を重ねてきていると思っていた私は、どのような理由なのか知りたく『すばる』誌2022年2月号を読んでみたのだが、編集長によると、「五回で一定の成果が出たこと、この賞に中心的に関わっていたスタッフが『すばる』を離れることになり、賞の継続が難しくなったことが理由」(「2022すばるクリティーク賞 選考座談会」、『すばる』2022年2月号)とのことで、この箇所を読んだ私は拍子抜けしたものである。理由を2点挙げているが、本当の理由は恐らく後者で、前者は後づけとしか思えない。先にも述べたが、選考委員全員が男性ではあるが、文芸批評を主戦場とする物書きのみが選考にあたっている点で、私は群像新人評論賞よりも好感を持っていた。ただ、一つだけ注文をつけるとすれば、選考委員同士の年齢が近過ぎることで、それによって、選考座談会の雰囲気がどうしても同窓会のそれのように感じられてならなかった。とりわけ、休止前最後の第5回目はその傾向が顕著に感じられた。公平な判定をするには、選考委員の年齢幅をもっと広げたほうがいいように思われる。私は、各世代から承認を得られた作品こそが非常に素晴らしい作品であると考えている。
 賞に中心的に関わっていたスタッフが離れるのが理由であるからには、会社側の人事の都合である以上、再開は当面見込めそうもない。代わりに他の社員はいなかったのかと思いたいぐらいであるが、売り上げがそれほど見込めない純文学の雑誌に好意的な社員はやはり少ないのかも知れない。
 文芸批評、または批評への風当たりの強さは、それらへの評判や新人賞の休止に限らず、雑誌の紙面そのものにも現れているように思われる。とりわけ近年、人文科学系のみならず、社会科学系の物書きや研究者にも紙面が多く割かれており、研究機関所属の彼/彼女らの小遣い稼ぎの場と化しつつあるように見受けられる。つまり、文芸批評、または批評を主戦場とする物書きの働き場が徐々にではあるが減少しつつあるということである。とりわけ、『群像』誌が顕著である。河出書房新社が刊行する『文藝』誌が2019年4月にリニューアルした約半年後に、『群像』誌もリニューアルして共に話題になったことは記憶に新しい。『文藝』誌のほうは、ちょうど年号が平成から令和に変わるのに合わせて新時代の文学を標榜し、文芸界の活性化を狙った点で、私としては期待するところ大であったが、『群像』誌のほうはどうであろうか?
 『群像』誌のほうは、2020年1月号(2019年12月刊行)から「文」×「論」をコンセプトにページ数を大幅に増やし、定価を1500円前後としリニューアルされた。「文」×「論」をコンセプトとするからには、当然批評のほうに力が入る。その上、「ジャンルを横断して「現在」にアクセスする講談社の月刊文芸誌」を標榜しており、「「現在」にアクセスする」はいいとして、「ジャンルを横断して」とはどういうことかと引っかかりを覚えたものである。リニューアル当初は、従来通り文芸批評をあくまで尊重する路線を取っているように思われたが、号を重ねるにつれて、あえて氏名は控えるが、人文科学系や社会科学系の物書きが多く連載を持つ有様となった。それぞれ連載の内容を読んでみるに、文学作品を絡めつつも、それは編集者側からの要望なのだろうが、総合誌あたりに掲載されるようなものばかりである。文芸批評のほうはと言うと、連載されている作品はいくつかあるものの、たまに特集が組まれて掲載される程度である。こんな内容にするぐらいなら、ページ数も定価も含めて、すべてリニューアル前に戻せと言いたいぐらいである。
 何はともあれ、批評一般に必ずつきものの悪評や新人賞の休止の理由や批評家の働き場の現状を見てきたが、悪評自体はそもそも必ずついて回るものであって、批評そのものに需要がある限り、あまり気にする必要はなく、新人賞の休止についても、『群像』誌に限って言えば、会社側のほうで結論が出さえすれば、すぐにも再開されると思われる。ただ、問題なのは批評家の働き場である。商業的な文芸誌において、そちらのほうが利益になるのか、注目を浴びる人文科学系や社会科学系の物書きに多く紙面が割かれているように見受けられる。会社側では、「批評は利益を生まない」だとか、「有望な批評家がなかなか現れない」だとかが現在、共通認識になっているのかはわからないが、とにかく文芸批評、または批評に割かれる紙面は少なくなってきている。商業的な文芸誌において働き場がないとなれば、文芸批評、または批評を主戦場とする物書きとしては、同人誌やネット上のプラットフォーム等々に活路を求めるしかない。そこらにおいて、自らに何が足りないのかを見つめ直しながら、コツコツと自らの仕事を進めて、需要に応えるように作品を供給するのみである。
 もしかしたら、私達が商業的な文芸誌に見切りをつける日が来るかも知れない。

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