見出し画像

その人のこと

私はその晩さめざめと泣いた。

の一文で締めくくられる夢を見ていた。noteをその文章で終えることが課されていて、私は自らの課題に応えるべく寂しさに包まれた夢を見る。


いつの頃からかその人のネット上のあれこれ、SNSの類が更新されなくなった。そして不意に、どう読んでも私宛ではない内容のメールが送られてきたのが9月の初めのことだった。間違いでしょうか?と笑いを含んだ返信をすると、そうだと思います、いろいろ混線して大変なんです、というその人らしい、けれども短い返信があった。
それから2週間ほどして今度は電話に着信があった。帰宅の移動にかかっているところだったから、お急ぎでしょうか?とメールすると、

間違い電話だと思います。電話よりメールの方がいいと思います。
真っ直ぐ帰って下さい。
いつも綺麗な絵ありがとうございます。いやされています。

と返事があった。
絵というのはインスタのそれのことを指してくださっているのだろう。心がほっとあたたまり、季節の変わり目ですからお身体に気をつけて、などと返して、そのやりとりを閉じた。


程なくその人の職場を訪ねる機会があった。自身の職場から地下鉄一駅ほどのところだ。いつも仕事帰りに歩いて向かう。お会いしたら、最近SNSの更新が無いですね、とちょっと意地悪く言おう、きっとにこにこと、そうですね、いろいろ大変なんです などと返してくださるだろう。歩きながら考える。しかし実際は少し違っていた。お声をかけても、ほとんど反応がなかった。その場の別の人との会話が弾めばはずむほど、なんとなく、私の心は落ち着かない。

やがてその人の席から距離をとり、声をひそめるようにして別の人は言った。もう全然、仕事もできないんですよ。夏頃から急に進行して、と。何も覚えていられないし、長い会話も成り立たない。さまざまに社会生活に支障が出始めたが、周囲がどうにか支え、職場をまわしているという。

もう一度その人の席を覗くと、椅子が空だ。出かけたのだろうか。別の人との話を終えて、外へ出る。明るい曇り空から天気雨のような細かな雨粒が落ちてくる。ぼんやりと駅の方へ歩くと、向こうからその人がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。いつもの通りだ。これまでもよくこの道ですれ違い、また来ますね、と笑顔を交わして別れた。何も変わらない。
近づくにつれ、その人がいつもより髭や髪が伸び、顔色がさえないのがわかる。でも私に気づいて笑ってくれた。

また来ます、

と声をかける。
その人は口を開けたままうなづき、手を上げて去っていく。同じでいて、ちがう顔が胸に突き刺さる。
私はその晩さめざめと泣いた。



いただいたサポートは災害義援金もしくはUNHCR、ユニセフにお送りします。