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火星の人

火星の人

朝の寒さと呼応するように庭の満天星が色づいていく。
織部色の葉は柳色になり、蒲公英色から鬱金色となって、徐々に朱みを帯びていく。発光するようなイエローにバーミリオンが少しずつ加わり、やがてスカーレットになりローズマダーになる。
植木屋さんを頼むタイミングを間違えたせいか、今年は千両に全く実がつかないから、満天星の橙色はよけいに眩しく暖かい。

火星の人、という本を読んでいる。
ひとり火星に取り残された宇宙船クルーの、日々の記録という体裁の本だ。次の探査船の到着する4年後までどうにか生き延びるべく、彼はまずじゃがいもを植える。積み荷の中にはビタミン剤が多量にあるが、飢えずにいるためのカロリーが足りない。土を運び[堆肥]を加え水を与え、不毛の星で耕作に勤しむ。彼はたった一人であるのに、そこに孤独というようなものは存在しない。ほかの、いかなる人間の気配もない星にあって、彼の日々に寂しいというような感情の入り込む余地はない。地球にいる家族も同僚もみな彼は死んだと思っている。人との交わりが無ければ、そんな感情は不要なのだ。彼のログは、澄み切った冬の夜空よりも高い透明度でそこにある。究極の世界というものはいつの世も清々しい。

じきに新しい年がやってくる。こぞことし、と言っても、ひと続きの日々。
再び庭に目をやれば、古木の梅も蝋梅も沈丁花も、みな蕾をつけている。植物たちは休まない。手にした小さな端末をいくら覗き込んでも、自分の未来も、君の心も見えそうにない。でもそんなものは見えなくて構わない。庭に真実がある。

ばらにお水を遣り、絵を描く。
透明なログを、休まず紡いでいきたい。



庭にだけ真実がある(水彩紙に墨)2022



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