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10月20日ごろ

ヘルパーさんの手を借りないと、父をベッドからおろすことはできない。ヘルパーさんは夕刻に帰るから、それ以降の夕食はテーブルではなく、ベッドサイドに小さな机を置き、そこにお膳を据えて父に食べさせる。
私は椅子に腰掛けて、父はベッドを起こして、私たちは斜めに対峙しながら食事をする。
母が突然入院して父と二人暮らしとなった期間も、それは同じだった。
夜、父はお膳を挟んで私と向かい合いながら、時々わたしの背後に視線をやることがあった。私の背中側には扉がある。その開いているドアの辺りを覗き込むように、私の肩越しに何かを見ている。
やだ、誰かいる?
半ば笑いながら問いかけても、父は答えない。こわいなあ、なんか見えるの?と茶化すように言いながら、父がそうする訳をわたしは全く考えなかった。

母が家に帰り、父も戻った。
ひと月の施設入所を経た父の身体には、わずかな面会時間だけではわからなかった変化がいろいろと起こっていた。それらを目にして、受けた衝撃を消化する暇もないまま、せわしく日々が過ぎる。
ある時、父が私の背後を見ていた話を母にすると、母は

わたしを探していたのかもね

と、言う。
それを聞いて私は雷に打たれたように言葉もない。母を探していた。そうに違いなかった。
どういう訳か私はそうは思わなかったのだ。父はもう母の不在もわからない、と決めてかかっていたのか、別の理由からか。

父が帰宅してから、再び息つく間のないような毎日が続く。予想はしていたけれど、一度楽な思いをしてしまった私は、どうにか再び楽になる方法はないものだろうかと、心の内ではそればかり考えていた。
はっきりと書けば、どうにかしてまた父を誰かに預けられないか、と考えていた。
だから、
父はいない母を探していた、というごく当たり前の事実を知らされて、ただ動揺している。そうはいかない、簡単にまたどこかに預ければ楽になる、というようなそんな問題ではないと、わかっていたことを知らされ心揺らいでいる。ことはそうそう容易くはないのだ、と。

父の身体のこともある。
父は施設にいるひと月余りの間に、脚に拘縮が起きた。まっすぐだった脚が曲がってしまったのだ。脚に力も入らない。
毎日リハビリをしている筈の施設で、なぜそうなったのか。面会の折に担当者から聞かされた話では、入所時と比べて大きな筋力の衰えはないということだった。
美しく整った、感じの良い施設だった。院長先生も担当者も、親身になって話を聞いてくれた。しかし結果はこうだ。避けきれぬものと思うしかないのか、納得も反発もできないまま、時だけが過ぎる。いずれにしても、私の甘やかな願望は行き場を失った。

今夜も斜に向かい合い、父と食事をする。時々、母がその様子を見にくる。私の背後を探す必要はもうない。父の表情は帰宅直後よりもいくぶん和らいだように感じる。それでよし、それで充分感謝すべきことだ。
きっとそうなのだろう。



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