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『鬼滅の刃』無限列車編感想 ~「災害」としての鬼、クローズドな美しさ~

※ 本記事は、劇場版『鬼滅の刃』無限列車編のネタバレを含みます!

 劇場版『鬼滅の刃』無限列車編を先日見てきました。もう最高に良かったです。

 原作の凄みをいかんなく再現する映像美と演出。社会現象とか、売上の大きさがニュースになるばかりですが、そもそも一つの映画作品として、非常に優れた内容に仕上がっている、そう自信を持って言える作品でした。

 この無限列車編、改めて何が素晴らしかったのか。興奮冷めやらぬうちに書き留めたいと思います。

1. 災害としての猗窩座

 この作品、一つの映画作品としては異色の構成となっています。

 前半では、走行中の列車「無限」を舞台に、下弦の壱である魘夢との戦いが描かれます。炭治郎の過去との決別、伊之助との共闘と見どころの多い戦いとなり、これだけで一つの映画として成立してしまいそうな、素晴らしい戦いでした。

 それを、これまで何の伏線も前フリもなかったにもかかわらず、上弦の参である猗窩座が現れ炭治郎たちを強襲。煉獄さんを殺してしまうのです。

 この流れは、はっきり言って一つの作品の構成として非常にイレギュラーなものです。起承転結、あるいは序破急という言葉があるとおり、一つの物語には、それが始まり、そして結ぶまでの流れがある。設定が展開され、様々な伏線や展開がちりばめられ、最後はその全てが直接的にまたは間接的に、一つの結末へとつながっていく。それが、一つの物語を創るにあたっての定石と言えるでしょう。
 
 しかし、この無限列車編はそうではない。魘夢戦できれいに起承転結が揃い、これにて結びとなるはずだったところに、突然猗窩座が現れる。そして、本作の中心人物だった煉獄さんを殺してしまう。炭治郎たちはほとんど何もできずに猗窩座を逃がしてしまい、嘆きに暮れ、そのままこの作品はエンディングを迎えます。

 一度は整いかけた物語を、最後にめちゃくちゃに荒らしてそのまま終わりを迎える展開。物語の定石という観点から見ると一見支離滅裂なものにも思えます。

 しかしながら、私はこの展開だからこそ『鬼滅の刃』なんだろうな、と思うんです。
 
 というのも、この猗窩座の登場の仕方は、鬼の「災害性」ともいうべきものを如実に表しているからです。この作品の鬼は、基本的に何か哲学を持っていたり、戦略的な行動を見せたりするわけではありません。ただ自らの欲のままに無差別に人を殺し、食らう存在です。だから、鬼に誰かが食べられてしまっても、そこには、例えばその人の行いが悪かったからとか、そういう納得のできるような理由はありません。強いて理由を挙げるならば、鬼を出会ってしまったから、でしょうか。ともかく、鬼というのは、人の力の及ばない、ただただ理不尽で支配的な存在として描かれるのです。

 そして、ここが重要なんですが、そうして鬼に理不尽に蹂躙されていく人間たちを、この『鬼滅の刃』という作品は、常に一歩引いた目でとらえます。

 その表れの一つが、この作品の鬼殺隊士の描き方です。この作品では、人が多く死にます。人が多く死ぬ作品はたくさんありますが、この作品は、多く死んでいくその隊士たちの人格を、ささやかながら描いてしまうんです。例えば『キングダム』は、武将たちが刀を一振りすることで首が簡単に飛んでいく兵士一人一人の人格など描きません。でも、『鬼滅の刃』はそこを描いてしまう。中途半端に隊士にセリフを与えて、それを数ページ後に殺してしまう。「モブ」から一段階昇格したキャラも、一切の躊躇なくその命を奪ってしまう。そこには、人が死ぬことへの一種の諦観がある。「そういうもんだよね」という冷めた目があると思うんです。そして、その延長線上にあるのが、煉獄さんというネームドキャラの死である。そう考えることができると思います。(何を隠そう『進撃の巨人』もこの好例です。)

 無限列車編でその『鬼滅の刃』の視点が最も如実に現れたのが、煉獄さんの死後の描き方だと思います。煉獄さんが息絶え、炭治郎は泣き、伊之助は震え、善逸は呆然と立ち尽くす。そのシーンを、この作品は相当の時間、引いたカメラから描くのです。もちろん、彼らの嘆きを、彼らの顔をアップして描くシーンもあります。しかしそれと同じくらい、彼ら4人が全員画面に入るような引いた視点で、カメラは彼らを眺める。同時に、私たちはそれくらい引いた視点で、うずくまる炭治郎を、立ち尽くす伊之助を、状況を受け入れられない善逸を、動かなくなった煉獄さんを、眺めさせられるのです。

 そうすると私たちは、彼ら4人のそれぞれに感情移入するだけでなく、どこか冷静に、その光景を眺めてしまう。そこには、少年マンガのヒーローも、映画のポスターを飾る頼もしい英雄も、ドラマを彩る存在感に溢れたキャラもいない。そこにはただただ、自分の力ではどうすることもできない力に荒らされ、蹂躙された、ちっぽけな人間がいるだけなのです。

 こうした本作の姿勢は、この作品の世界観と直結しています。この世界は、一人の英雄がどうにかできるような仕組みにはなっていない。人が地震や台風のおそろしさに抗えないのと同じように、人は鬼に抗うことはできない。そんな世界の在り方をかえることはそうそうできない。この世界は、そういうふうにできているんです。そういうものなのです。そんな厳しい世界観のもとに、この作品は成立しているのだと思います。(なお、本作は後にこの世界観を自ら克服するようになっていきますが、それはまた別のお話...)

 猗窩座が物語のセオリーを(人間の都合を)踏みつぶして煉獄さんの命を奪ってしまう。この映画の構成は、この作品の上記のテーマが鮮烈に表れたものなのだと感じるのです。

2. クローズドな美しさ

 しかし、『鬼滅の刃』がそんな世界を描くにもかかわらず、炭治郎の、鬼殺隊士の心は折れません。彼らはこの残酷な物語の中で、諦めることなく、いつ終わるともわからない鬼との戦いに身を投じていくのです。

 その点、魘夢戦の炭治郎の覚醒シーンは非常に象徴的だったと思います。炭治郎は魘夢の手によって、かつて家族と楽しく暮らしていたころの夢を見ます。やがてそれが夢であることに気づき、彼は覚醒しようするわけですが、覚醒は家族との暮らしとの決別を意味します。「ずっとここにいたいなあ…」そう炭治郎は心のうちを吐露しますが、やがて自ら、あの残酷で過酷な世界に舞い戻っていくのです。この世界が残酷であること。それはもう受け入れるしかない現実なんです。その現実を受け入れた上で、戦う。それが、炭治郎たちの戦いなのです。

 そこには、「この世界で何かを成し遂げられること」そのものではなく、「この世界で何も成し遂げられないかもしれないけれど、それでも前を向くこと」の素晴らしさが確かにあります。その素晴らしさは間違いなく、この『鬼滅の刃』という作品の魅力の一つです。
 
 しかし、彼らが戦い続けるには、やはり何らかの手の届く目標が必要になるのではないでしょうか。もちろん彼ら彼女らは、本気で鬼のいない世界を作ろうと思っています。自分の代ではそれが達成できなくとも、次世代を育て、その戦いを確実に託すことに大きな意義を感じています。しかしながら『鬼滅の刃』は上記のとおり、「世界は変えられない」「人は蹂躙されて死んでいくものだ」という世界観の上に成立している。その『鬼滅の刃』が、世界を変えるという途方もない目標だけでキャラを動かすのは、自己矛盾とは言わないまでも、一種の無理が生じてしまうと思うのです。

 ではこの『鬼滅の刃』は、隊士たちの目標としてどのようなものを設定すればよいのでしょうか?

 その答えになるのが、他でもなく、煉獄さんの家族のエピソードなんだと思います。彼の父はかつての炎柱でしたが、あることが理由で突然戦うのをやめ、自室に籠りきりになってしまっています。そして母は夭折している。煉獄さんは若くして、一家の柱として家族を支えなければならない状況にあったのです。

 そんな煉獄さんを支えていたのは、死の直前に伝えてくれた母の言葉。煉獄杏寿郎は人よりも強く生まれてきた。だから、弱い者を助けなければならない。その母の遺言を胸に、彼は家族の柱、そして鬼殺隊の柱としての重圧に負けず、ここまで戦ってきたのです。

 そして、その戦いはこの「無限列車編」で終わりを迎えることになります。煉獄さんは魘夢、そして猗窩座との連戦の末に命を落とします。しかしその戦いの後に残されたのは、列車「無限」の乗客数百名死者無しという、最高の結果。彼はついに母の遺言を全うし、その生を終えることとなるのです。

 これは本当に素晴らしいドラマではないですか。あれだけ人間離れした強さを誇り、あれだけ堂々と鬼を狩り、炭治郎たちを引っ張ってきた煉獄さんが最後に見せるのは、まるで子供のような、母の言葉に応えられたことへの喜びなのです。ある意味中身の読めなかった完璧すぎる煉獄さんがその最期にふとさらけ出す、人間らしさと笑顔。それに、心を動かされないことがありましょうか。

 この「母への思い」というのは、鬼が支配するこの世界で、鬼が決して得ることのできない、人間だけが見せられる美しさです。人間が鬼に蹂躙される世界でも、人間一人一人が互いに抱えるクローズドな思いに目を凝らして見ると、その高潔さは一切損なわれていない。いや、その高潔さというものは、世界が残酷であればあるほど、コントラストのようにしてますます煌めく人間の美しさなのです。

 まさに、人の思いは不滅なのです。

 そんな、どれだけ世界が残酷になっても決して消えはしない、人間の「クローズドな美しさ」。それこそが、この無限列車編、いや『鬼滅の刃』という作品が持つ、私たちの心を掴んで離さない魅力なのだと思います。


(おわり)

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