見出し画像

一錢亭雜稿(その三)△小泉信三先生著「師・友・書籍」 第二輯に就て△

 私が勤めてゐる王子製紙

株式會社に、故水上瀧太郎

氏の令弟で、阿部芳郎さん

といふ人が居る。凡そ勤人

などといふものの型とは緣

遠い、奥行の深い性格の人

で、一面、現代に稀れなる

快男子でもある。私とは机

こそ竝べてゐないが、同じ

室の背中合せといつてもい

いほど近いところで仕事を

してゐるので、時どき繪畫

や本の話をすることがある

 或る日、その阿部さんが

「こんな本が出ましたよ」

と云つて私に示したのは、

小泉信三先生の新著「師・

友・書籍」第二輯で、岩波

書店の發行になるものであ

る。小泉先生は私が紹介す

る迄もなく、現慶應義塾塾

長であるが、先生の奥さん

が阿部さんのお姉さんにな

るから、小泉先生は即ち阿

部さんの義兄に當る譯であ

る。だからその本の扉には

著者から阿部さんへ献ずる

といふことが書いてあるの

は勿論である。私はそれを

見て、直ぐ銀座界隈の大き

な書店へ馳けつけたが、ど

この書棚にも見當らない。

最近の著しい現象であるが

一流出版者、殊に岩波書店

あたりから出版される、一

流の著者の本は、新聞廣告

に出ても、殆んど書店の棚

にその實物を見ることは至

難である。直ちに書店へ注

文しても、賣切れといふ返

事が多く一体それらの本は

どこをどう流れて讀者の手

に入るのか、不思議な氣が

してゐたが、この小泉先生

の本もその例に洩れず、到

底私の手には負へぬもので

ある事が判つたから、阿部

さんにその由を云ふて何ん

とかして入手の方法はない

か、小泉先生に訊ねて頂き

たいーと賴み込んだところ

直ぐ、私が非常に本好きで

あることと、「師・友・書籍」

第二輯を是非購ひたいが、

書店にはないので、何んと

か特別の方法で入手できな

いものかといふことを、小

泉先生に照會してくれた。

折返し、先生から、「そんな

に本を大切にする人なら著

者として呈上しやう」とい

ふ御返事があつて、扉に私

に呈する旨をペンで自書さ

れた本を、早速、阿部さん

を通じて私に下さつたので

ある。私は恐縮と感激に堪

へず、一介の愛書家として

小泉先生に、次ぎのやうな

御禮の言葉を述べた手紙を

差上げたわけである。

 謹啓

 菊薫る好季節に際しまし

 て先生の御筆硯愈々御旺

 んなるを慶祝いたします

 此度、阿部芳郎さんを煩

 はしまして、非常に失禮

 なることを申上げました

 ところ、御咎めもなく、

 却つて貴著「師・友・書籍」

 第二輯を私に御惠與下さ

 いまして、誠に恐縮感謝

 の他ございません。一介

 の書物を愛好する者とし

 て無上の光榮に存じます

 時局下、諸事不如意は當

 然ではありますが、他の

 ものは別と致しまして、

 永遠の生命の籠るべき書

 籍の多くが、近來の如く

 粗惡繙讀に耐へざる洋紙

 に、摩滅した汚ない活字

 で、無量心な誤植だらけ

 の印刷をされ、然も頁の

 散逸を防ぐため、單にボ

 ール紙を貼りつけしのみ

 と評するの他なき俗惡低

 級なる裝幀で出版せられ

 る現狀に對して、私は日

 頃、一愛書家として義憤

 に近きものを痛感してゐ

 る者でありますが、貴著

 を手にいたしまして御令

 嬢の手になるといふ裝幀

 の綜合的効果の美しさを

 泌みじみ噛みしめ味ひま

 した丈けでも、私にとつ

 ては、清涼劑をのむすが

 すがしい氣持がいたしま

 す。良き思想は美しき器

 に盛らねばならぬ眞理を

 つくづく感じて居ります

 讀むよりも先づ本を眼で

 見て樂しむといふ偏質的

 傾向にある私は、昨日以

 來、珍らしくも、貴著を

 一氣に耽讀して居ります

 が、崇高至純の行文の魅

 力に、書物を讀む者のみ

 の知る法悦を感じて居り

 ます。繙讀して行くうち

 にも、どうも一息に讀み

 了へるのが惜しくなつて

 時どき本を掌に乗せて、

 そのどつしりとした、思

 想的な、物質的な重量感

 を樂しんだり、表紙の何

 んとも譬へやうのない、

 深い、澁い、見ればみる

 程底知れぬ落着きのある

 色の美しさ(これは水上

 瀧太郎全集の表紙の色に

 も同樣の感を味ひました

 が)、近來容易にみること

 も出來ぬ、純白洋紙の艶

 かな感觸、目次に一個所

 貼付があるだけで、誤植

 の全くない、校正と印刷

 の完璧さなど、先生の潔

 癖な御氣象が偲ばれるや

 うで、私は只ただ讃嘆の

 聲を放つのみであります

 貴著が岩波書店から出版

 せられたことを阿部さん

 から承はりまして、直ち

 に銀座界隈の書店を馳け

 廻りましたが、徒勞に終

 りました。近來、一流著

 者の本で、一流出版社か

 ら刊行されるものは、殆

 んど書店に姿を見せぬ傾

 向にありますので、或は

 先生に御願ひしたならば

 何んとか特別に入手の途

 があるかも知れぬと考へ

 ましたので、阿部さんに

 無躾な御願ひをしました

 次第で、圖らずも、愛書

 家として垂涎措く能はざ

 る、貴著を先生から頂く

 やうな結果になつたのは

 私にとつて意外の幸運と

 申さねばなりません。日

 頃、何ものよりも書物を

 愛する私の至情が天に通

 じたためと思ひまして、

 先生の御厚志に對し、歡

 喜して御禮を申上げるも

 のでございます。

 十一月十三日の朝日新聞

 に御發表の「迂廻生産」

 を敬讀いたしまして、大

 いなる啓示をうけました

 御論旨は悉く同感共鳴い

 たします。殊更らに、そ

 の後半の御垂示に對して

 は、今日の日本の指導者

 が三省四考すべき、光芒

 千里を照らす、ちょう大なる

 示唆が閃めいて居ります

 貴著を頂きました喜びに

 溢れて、失禮をも顧みず

 稚拙なる文字を綴りまし

 て御眼を汚しましたこと

 を深く御詫び申上げます

 先生の益ます御健勝なら

 んことを祈ります。敬具

 (終-昭和十七年十一月
      二十二日稿)


(「柏崎」會報No.19 
  昭和十七年十二月十五日發行 より)


#柏崎 #越後タイムス #旧王子製紙 #昭和十七年 #水上瀧太郎
#阿部芳郎 #小泉信三 #師友書籍 #岩波書店 #古書 #古本
#慶應義塾大学




        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?