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透 明 人 間 的 散 文  △續 一 錢 亭 雜 稿△


       本 社 菊 池 與 志 夫


        ○

 支那事變が始まる前迄の日本には、廣い

意味での自由生活があつたが、事變以來

は、漸次、その影が薄れて、殆んど自由と

いふ文字すら、現世から抹殺されるに至つ

た。さうして遂に、來るべき大東亞戰爭が

勃發した。

 最早、日本だけではなく、全世界を通じ

て、再び「自由」の文字を使用するやうな

時代は來ないと思ふ。

 貧富の差は、恐らく、物質生活に關する

限り、昔のやうな狀態では現はれなくなる

筈である。

 物質生活―その中でも、吾われの日常生

活に於ては、好むと好まざるとに拘はら

ず、均等生活の强行が始まる。或は既に或

る程度に始まつててゐる。

 吾われの多くは―尠くとも私は、その

昔、生活の向上といふことに重點を置き、

これを一つの目標として、自分の生活を闘

ひとり、さうして前進して來たつもりであ

る。然し、これも今となつては、一場の夢

物語に過ぎない。この事は、私と同年輩或

はその前後十年ぐらいの人にとつては、正

直に云へば小悲劇の終幕である。

 今、吾われの前には、創世以來始めて

の、廣大無邊ともいふべき人類再出發劇が

開幕されたのである。人間個々の小さな生

活などは、この芝居の舞臺の奥から押し寄

せて來る爆風のために、一度はひしやげて

了はねばならぬ運命にある。さうして、そ

の壓力に耐へて、再び立ち上つたところか

ら、吾われの前に、新らしい黎明が颯爽と

登場するのである。

 個人の物質生活に對する規正は、これか

らも未だまだ壓力を加へるであらうし、勿

論、もつと/\加重されねばならぬのであ

る。そこで吾われの只一つ賴みとするもの

は、物質的な如何なる重壓に對しても、嚴

として反發する精神力の健在あるのみであ

る。長い間の習性的生活の殘滓とも云ふべ

き物質的慾望は、吾われの身心の底深く沈

殿して、やゝともすれば躍動しがちである

が、これを飽く迄制壓し乍ら、さうして又

一方に於て、これがために招來する虞れの

ある、文化的退歩を充分に警戒し乍ら、吾

われの精神生活を豐富に、强盛無比にする

ことが、現在の吾われへの重大な課題であ

ると思ふ。

        ○

 美術雜誌「國民美術」に掲載された、

「横光利一―岡本太郎、藝述對談會」の中

で、横光氏が、

「今の知識階級の人なんか見ても、一個人

 の中に、保守主義と進歩主義と二つある

 ですな。その使ひ分けに非常に困つて居

 るのですな。保守主義と進歩主義と二つ

 同時に自分の中にあることは、是は日本

 人の特徴ではないかと思ふ。」

といふことを話てゐるのを讀んだが、同感

だと思ふ。

 保守主義と進歩主義といふ文字を、消極

主義と積極主義といふ文字に置き替へても

いゝが、私のやうな知識階級でない、只の

一小市民でも、獨り靜かにものを考へるや

うな時に、この問題に苦しむことがある。

 こういふ、はつきり背叛する二つのもの

が、一人の人間の中にあることは、日本人

の特徴ではないかと思ふ―と、横光氏が喝

破してゐるのは卓見である。この日本人の

特徴といふところを私は、日本の家族制度

と、人間としての肉親愛といふことに結び

つけて考へて氣休め的な解答を得てゐる

が、これは私の性格が弱いためであると思

ふ。何も今始まつたことではなく、日本人

は昔から、國力の發展に伴つて、北に、南

に、力强く進出して行つた。これは進取の

氣象がさうさせる積極的な一面の現はれで

ある。私といへども心の底にはこの氣象が

激しく燃えてゐる。しかし、これを敢行す

るには、家族制度と强く矛盾するものがあ

ることは否めない。又、人間としての肉親

愛といふことも、取るに足りぬ小感情では

あるが、これも亦私ごときものにとつて

は、容易ならぬ鎖である。これを潔く斷ち

切つて、敢然と歩武を進めて行つた人び

と、或は行ける人びとを、私は限りなく羨

望し、又、尊敬する。私は、それらの人び

との前に立つただけで低く頭が下る思ひが

する。

 大東亞戰爭下の建設工作に當つては、進

取果敢な人のみが必要なのであつて、「保

守主義と進歩主義と二つ同時に自分の中に

あることが特徴である日本人」は、一人殘

らず亡び去るべきである。

        ○

 私は今から二十年前、會社へ入つて二、

三年經つてからの事であるが、殆んど每月

のやうに、一ヶ月のうちの三分の一といふ

ものは横濱の波止場へ出張して、アメリカ

から輸入した松脂の看貫をやらされたもの

である。

 その頃は大概、一回に少くて千樽、多い

時は三千樽の松脂が入つて來て、これを出

來得る丈け迅速に檢斤して受渡を完了しな

ければならなかつたが、馴れる迄は、あの

廣い波止場にずらりと竝べられた樽を見た

だけで、こんな多數のものを僅か二日か三

日間位で片づけられるだらうかといふ不安

の念が先き立つて、たぢろいだものだつ

た。

 この仕事には大低、二十人から三十人餘

りの、荒くれ男の波止場人足が働らいてく

れるのであるが、彼等は、私が斤量玉を持

つて立つてゐる臺秤をめがけて、力任せに

續ぞくと樽を轉し上げてくる。私は素早く

目盛桿を動かして斤量を讀みとつて、「×

××斤」と大聲で讀み上げて、私の側で眼

を皿のやうにして覗いてゐる、賣手の立會

人に重量を知らせると共に、左手に持つて

ゐる檢斤手帳に數字を書き入れるのであ

る。この手帳は、十樽每に小計を出すやう

になつてゐるから、十樽になると、暗算で

小計を出さねばならぬ。この計算をしてゐ

る内にも人足は遠慮會釋もなく、どん/\

臺秤の上へ樽を轉し上げて來るのだから、

この時は、二つの眼を一つは秤の目盛に、

一つは手帳の計算といふ工合に、使ひ分け

をしなければならなかつた。こういふこと

を、晝食と三時の休み時間を除いて、連續

的に一分の休みもなく、片附けてゆくの

が、私の仕事であつた。だから、すこしで

も私がまご/\してゐれば、人足は容赦な

く臺秤の上の樽を轉し落して了つて、二度

と上げてはくれないから、正確な斤量は分

らず終ひになる。それでは私の職責は果せ

ぬから、全身の神經を秤に集中させて、死

物狂ひで松脂の樽と格闘したものである。

嚴寒と酷暑の季節の勞苦と疲勞、さうし

て、手、顔、眼、鼻、耳、口など所嫌はず

松脂の粉末が密着した不快さを、今でもま

ざ/\と思ひ浮べることができる。

 當時、未だ二十二三才の若い私は、この

波止場人足の荒くれ男が怖くて耐らなかつ

たが、その内にだん/\回數を重ねて顔馴

染になると、案に相違して彼等には、いか

にも人間味のある親しみ深い一面があるこ

とが分つた。さうなつてからの或る日、彼

等の一人が私の顔を見乍ら、

「旦那方が、人足のやうな伴天着に落ちぶ

れることは、とても出來ることぢやない

が、あつし等は努力次第で明日にでも旦那

方のやうな洋服を着やうと思へば着れるん

だからな。」

といふやうな意味の言葉を自信深さうに云

つたことがある。どういふ話のきつかけか

らさういふ事を云つたのか思ひ出せない

が、今考へてみると、この言葉には人間生

活の眞理が含まれてゐるやうに思ふ。

 吾われ凡俗な人間は、一旦向上した生活

を、多少でも低下させることは、容易なこ

とでは出來ないものである。若し、强いて

これを敢行すれば甚だしき苦惱を伴ふので

ある。それに反して、生活の向上といふこ

とは、人間の努力に依つて、漸進的にせ

よ、或は一躍的にせよ、誰れにでも可能な

のである。この事は、人種、民族の如何を

問はず、人間共通の眞理であらうと思ふ。

 この小さな一挿話から、いきなり大きな

問題に飛び込むやうであるが、日本は今、

大東亞共榮の世紀的大使命を果すべく、永

年に渉り、米、英から不當な壓迫と歪める

支配を受けて來た、南方亞細亞民族の解放

と向上とのために國運を堵して戰つてゐる

のであるが、その建設工作に當つては、共

榮圏内の諸民族の生活を少しでも低下させ

るやうな政策は、絕對に避けなければなら

ぬといふ事を銘記すべきであると思ふ。

        ○

 私は頭が惡いから、本を讀んでも片端か

ら直ぐ忘れて了ふたちである。ひとから、

讀んだ本の内容の說明や感想を求められて

も、何一つ滿足な回答が出來ないのであ

る。だから私の讀書は功利的には全然無意

味である。それてゐて困つた事には、私は

病的な本好きである。それも强ち讀むため

が目的ではなく、只、なけなしの財布をは

たいて、氣に入つた本を購ふことが樂しみ

なので、讀む讀まぬは第二の問題である。

財力の乏しい私は、本を購ふといつても、

ひと月に精ぜい五、六册、多い時でも十册

を超えることは殆んどないといつても

いゝ。私は學者でも、文藝家でもないか

ら、系統立つた本の集め方や、或る目的に

方向づけられての蒐集をする必要がないの

で、手當り次第に、氣樂な、氣まぐれな、

行き當りばつたり的な購ひ方をしてゐて

いゝわけである。然し、製紙會社の事務員

を無上の天職と心得てゐる私が、こんなこ

とを云つたら叱られるかも知れぬが、更紙

を綴じ合せて、薄つぺらな表紙をつけて粗

製濫造した、當今の本は、どうも進んで購

ひたくない。手に持つても、ふわ/\とし

てゐて、本らしいどつしりとした重みのな

い本は、中に書いてあることまでが空虚な

やうな氣がする。ちよつと强く引張ると直

ぐ裂けて了ふやうな紙に、ちびた活字で汚

ない印刷をした今の本に永遠の魂はこもり

つこない。見ただけでも身震ひする―と云

ひ乍らも、朝日新聞の朝刊第一面の下欄の

本の廣告に、好きな本屋から、好きな著者

の本が新刊された事が出てゐるのを見たり

すると、どうも購はずには居られないので

ある。現今でも、書物展望社、アオイ書

房、龍星閣、岩波書店、小山書店、双雅

房、中央公論社、新聲閣、甲鳥書林などか

ら出版される本は、必ずしも滿足はされな

いが、まづ我慢できないことはない。しか

も、それらから出るものでも、これはと思

ふ良い本は、大概、和紙を用ひたものであ

るのは、洋紙會社に奉職する者としては情

ない限りである。

 だが、私がほんたうに欲しいのは昔の美

しい本である。だから私は古本屋を漁る。

もう今までに私は、欲しいと思つてゐた、

昔の美しい本は、ほゞ購つて了つたやうに

思ふ。

 去年の秋、銀座裏の「吾八」を素見しに

行つたら、かねがね私が欲しいと希つてゐ

た、大正四年に春陽堂から出た、鈴木三重

吉氏の「三重吉名作集」が、津田靑楓氏の

美しい裝幀で十二册揃つてゐたのを見つけ

た。この時私は内心わく/\するほど嬉し

かつた。直ぐ一册五十錢の定價のものを古

本公定價格の、定價の三倍で購つて來た

が、よく調べてみると、その本は全部で十

三册出てゐるわけで、その第六篇の「霧の

雨」一册が缺けてゐたことが分つたので、

「吾八」にも賴んだし、「書物展望」に廣

告も出したし、あちこちの古本屋や古書展

を探したが、今だに手に入らない。

 「吾八」ではつい先頃、アオイ書房の誕

生出版の、堀内敬三氏著「ヂンタ以來」

と、古い頃の出版で薔薇閑(下田將美氏)

著「煙草禮讃」をみつけて購つた。これも

私が久しく思ひ焦れてゐた、私としては掘

出し物であつた。

 それからもう一つ、去年の大晦日の銀座

散歩の歸途、數寄屋橋際に新らしく開店し

た第一書房へふと入つてみると、これも昭

和七年に發行された當時に購ひ洩らして以

來、夢に迄見てゐた、佐々木直次郎氏譯の

「エドガア・アラン・ポオ全集」が、全五

巻の内、一巻と二巻とは一册もなく、三、

四、五巻が各五、六册宛書架に思ひがけな

くあつたのを見た時も、思はず快哉を叫ん

で、今では見ることも出來ぬ、背皮天金の

本を三册購ひとつて、昭和十六年の最終日

の大収穫をした快適な氣持で、家路を急い

だのであつた。米、英と戰爭をしてゐるさ

なかで、敵國人の名を冠したものは音樂の

演奏までを禁じられてゐる時に、もう故人

であるとは云へ米國人であつたポオの全集

を見つけて、小躍りして喜んでゐるなど

は、非國民のやうな氣がするが、その數日

後、第一書房の書架をのぞいた時には、も

う一册もなかつたのをみると、非國民は私

一人ではなかつた―と考へて、いさゝか苦

しい自己辯護をしてゐるわけである。「王

友」の讀者の中で、本好きの人があつて、

古本屋でも覗かれた時に、第一書房出版の

佐々木直次郎譯「エドガア・アラン・ポオ

全集」中の第一巻「輕氣球虚報」と第二巻

「群集の人」を發見されるやうなことがあ

つたら、購ひとつて私に譲つて頂きたいも

のである。

 矢部隆常君と一緒に小石川白山上の窪川

書店や、早稲田、神田、本郷、澁谷等の古

本街を彷徨したことが數回あるが、同君の

蒐集は、私とは全然異つたやり方で、同君

は、永井荷風とか、谷崎潤一郎とか、水上

瀧太郎とか、久保田万太郎とか、里見弴と

かいふ作家の單行本の初版のみを目標にし

て購ひ集めてゐるのである。矢部君はさう

いふ集め方で大分澤山の本を持つてゐるら

しいから、一度機會を見てその書棚を見せ

てもらひたいと思つてゐるが、實のことを

云ふと私は、餘程氣心の分つた人でない

と、自分の本をひとに見せたくないやうな

偏質者だから、同君なども或はさうぢやな

からうかと獨り決めにして進んで云ひださ

ずにゐる。本好きな人は他人の書棚を見、

欲しくて耐らぬ本があつたりすると、つい

ムラ/\と無斷で失敬したりするやうな魔

心が起るといふ話だから油斷は出來ない。

 妙な癖で私は、いかなる職域を問はず一

流の人物の著した本でないと讀む氣がしな

い。文藝家は勿論のこと、軍人でも、科學

者でも、政治家でも、經濟學者でも、實業

家でも、事業家でも、藝術家でも、凡そ一

流の人物の書いたものには、滋味掬すべき

コクがある。無駄がなく、迫力があつて、

しかもどつしりとした重みがある。足がし

つかりと大地を踏みしめてゐて危氣がな

い。最近私は、高橋誠一郎氏の「王城山莊

随筆」を讀んで特にこの感を深くしたもの

である。

 又、出版良心のない出版者の手になつた

本、場當り的な際物本、實蹟を殘すためと

かで、一昨年當から、吾も吾もと族出した

馳け出しの本屋から出た更紙本、一當てゝ

設けてやらう主義の本などを見ると惡寒が

して來る。もつとも彼等に云はせれば、時

代に取り殘されたヂレツタンテイストに過

ぎない私ごとき者から惡罵されても、どん

な本でも喜んで買つてくれる新興購書階級

の底知れぬ購買力に便乗すれば、目的は達

したわけだから平氣であらうが、いくら更

紙でもこういふ浪費はもつたいないと思

ふ。又、一方相當な地位にある著者で、こ

れらの一現的出版業者の甘言に乗せられ

て、多少印稅の條件がいゝ位のことで、本

を出す度每に出版者を變へてゐるのは不見

識極まる話である。

 學究のためとか、職業上必要な本とかは

勿論別問題ではあるが、愛書家的見地から

云へば、現在の私にとつてはもう新刊書は

不要である。二十數年前からコツ/\と購

ひだめて來た私の愛書は、それでももう數

百册にのぼつてゐる。さうしてこれ等の本

を私は、ほんの序文とか、跋文とかを讀ん

だだけで、印刷された文字が活き/\と浮

き上がつて來るほどの文章の魅力と愉悅と

を、ちびり/\と、なめづるやうに味ひ、

噛みしめてゐる内に、讀み進んでゆくのが

惜しくなつてやめて了ひ、あとは只、本を

手に取つて、ためつすがめつ、澁い、美し

い裝幀を心ゆく迄樂しみ、或は恰も愛兒の

頭を撫でるやうに、本を撫でいつくしんで

ゐるのみで通讀しない本が、私の藏書の三

分の二以上にもなつては、老先き短い私の

老後の楽しみにとつて置くのには、これだ

けで充分過ぎるほどである。

        ○

 「俳句研究」の座談會で、中村草田男氏

が、フイリツプの言葉とかいふ、「趣味と

デイレツタンテイズムの時代はもう過ぎ

た。今日は野獣の生きるべき時代だ。」を

引用して論じたといふことが、富安風生氏

の著書「草木愛」に書いてある。この言葉

は私にとつても頂門の一針であることは、

この私の「透明人間的散文」を一讀された

人の、ひとしく首肯せられる所であらうと

思ふ。

(昭和十七年二月十一日紀元節夜稿)


(「王友」十八號 
  昭和十七年十月二十日發行 より)


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           紙の博物館 図書室 所蔵

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