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田舎の母へおくる芝居消息(二)

  ―續稿―

 次ぎは、松居松翁氏作諷刺劇「淀

君小田原陣」一幕です。母上には

諷刺劇などといふ言葉は多分お解

りにならないと思ひます。諷刺と

いふことは、まづ例へば私のやう

な人間のことだとお思ひになれば

いいのです。私を諷刺兒だとすれ

ば、兒を劇といふ文字に變へたの

がこの芝居です。

 まづ幕が開きますと、小村雪岱

氏の典雅な舞臺装置にうつとりと

します。箱根の山のなかではあり

ますが、華麗な御殿づくりなので

す。庭園や山は五月の風景です。

いちめんの靑葉若葉ののなかに、藤

の花が房ふさと咲いてゐます。或

はまつ赤な躑躅つゝぢの花が群り咲いて

ゐます。その座敷にはヒステリイ

を起した淀君が、いい氣になつて

言ひたい放題のことを饒舌つて居

るのです。幕開きに踊子が大勢踊

つてゐるのは大へんいいのですが

座敷では狹過ぎて踊る人びとに氣

の毒です。少々品はわるくなるか

も知れませんが、いつそ庭で踊ら

せたらどうかとも思ひます。

 なぜ淀君が箱根へきたりしてゐ

るかといひますと、我儘で、ヒス

テリイで、傲慢な彼女は、ちょつ

としたことが氣に入らないので駄

々をこねてゐるからです。(私のみ

るところに據りますと、今の十七

八から二十四五ぐらいまでの東京

育ちの娘さん達は、殆んどこの淀

君型の女であるます。昨今モダア

ン・ガアルと言はれて私達の話題

に一點の新鮮なる興味を添へてゐ

る女人の典型が、既に今から三百

餘年も昔に存在してゐるといふこ

とは甚だ面白いことでは厶いませ

んか。)豊臣秀吉は偉いひとでせう

が、淀君のやうな妖婦型の美女に

は全く参つてゐたのでせう。或は

参つた風をしてゐたのかも知れま

せん。とに角淀君は、秀吉がいく

ら使者を出して呼び迎へやうとし

ても、言ふことをきかないのです。

お終ひには石田三成がやつてくる

のですが、彼も淀君に心をうばは

れてゐる一人なのですから、いい

かげんに飜弄されて了ふのです。

そのうちに夕暮になつて、五月の

月かげがこぼれてきます。淀君は

皆を追ひかへしてたつた一人石田

三成の弟の佐吉だけをのこします

 座敷には淡い月のひかりが靑く

さしこんでゐるだけで燈火は點し

てありません。佐吉は十六七ぐら

いの水の滴るほどの美少年です。

 この二人の美しい男女が、仄ぐ

らい室にとぢこもつて月光を浴び

てゐるさまは凄艶です。淀君は佐

吉の美しさに恍惚として彼に戀を

します。いや、戀といふよりもこの

美少年を性慾的に弄ぶのです。(女

といふものは性慾的には随分大膽

なものですね。―この淀君の芝居

をみたためばかりではないのです

が、私はつくづくさう思ふもので

す。いのちの次ぎに、いや、多くの

塲合、いのち以上に化粧や着物を

氣にかける女は性慾のために生き

てゐるのだとしか私には思へない

のです。)そのとき不意に陣太鼓の

音がなりひびいて、夜討といふこ

ゑがきこ江、靜かな箱根の夜は急

に騒音にみちてしまひます。淀君

はびつくりして、佐吉を秀吉のも

とへ走らせ、身ごしらへにかかる

ところへ悠々と入つてくるのは秀

吉です。秀吉は歴史の本にもある

とほりに甚だ醜い老人であります

淀君ほどの淫蕩な美女が、いくら

偉らくても秀吉のやうな皺くちや

爺にからだを任かせてゐることは

同情してもいいと思ひます。然し

ついさつきまで甘美な愛慾の瞬間

を貪つてゐた淀君が、自分の身が

危くなつたからと言つて、美しい

佐吉を使に走らせるのは感心でき

ません。佐吉が可愛くて耐らない

のならば、誰が夜討に來やうと氣

に留めないで、二人で抱き合つた

まま殺されるのが當然だと思ひま

す。淀君がさうしないのは、彼女

がエゴイストだからであります。

又、昔特有の武士の娘といふ冷た

い理性を固持してゐる概念尊重婦

人だからであります。

 さて夜討といふのは悉く秀吉の

つくりごとであつたのです。淀君

はうまうまと秀吉にだまされてし

まふのです。秀吉は、小田原城も

落城ときまつたし、淀君の機嫌も

案外いいので甚だ上機嫌でありま

す。さうして嬉しさの餘り、彼は

徳川家康の眼のまへで淀君とふざ

けてみせたりするのです。家康は

苦笑して顔をそむけます。歴史を

ひととほり讀んだことのある私は

この家康の苦笑を輕視することは

できません。何故といふに、この

苦笑こそは、徳川家康の政治的成

功の重大なる刺戟のひとつであつ

たにちがひないと思ふからです。

徳川氏三百年の繁榮は、全く當夜

の秀吉を淀君との不遠慮なる戀愛

的行爲に發噴した家康の嫉妬に起

因してゐると私は信じるものであ

ります。――やがて又和氣藹々の

うちに踊が始まります。すると、秀

吉もついつりこまれて、へんな格

好をして踊りだすところでこの芝

居は終るのです。(續)

(越後タイムス 大正十五年五月二日 第七百五十一號 三面より)


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