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スポーツを通じて人間教育をする意義

 ここ2日くらい、スポーツ界隈がざわついております。

 発端としては、バスケの指導者(審判?)の方が、中学生の審判に対するリスペクトの欠けた言動に苦言を呈し、「チームでそういう部分を教えてもらわないのか」と疑問をツイートされたところ、サッカーの指導者の方が「スポーツと教育を混同すべきでない」と引用リツイートされて、「スポーツと人間教育」についての宗教戦争が勃発した感じです。

 遅ればせながら自己紹介いたしますと、私は新潟県長岡市で長岡西陵スポーツクラブという子ども向けスポーツクラブの代表をしています。
 我々は、まさにこの「スポーツを通じた人材育成」を最上位に掲げるクラブとしてつい先日誕生したところです。

 ところで、まず確認しておきたいのですが、「スポーツで教育」というと、躾であったり、礼儀であったり、行き過ぎると大人への服従・隷属であったり、過激な言葉を用いれば洗脳であったり、そういうものをイメージする方が一定割合いらっしゃることを今回私も学んだのですが、「スポーツで教育」を志向する指導者の大部分は、そういうものをイメージしてはおりません。

競技力は二の次

 例えば当クラブは「自らの個性と情熱を活かし、しなやかに社会で活躍する人材を輩出する」ことを理念に掲げています。
 つまりは、大人になったとき、競技者としてだけではなく、もっと言えばスポーツ人材としてだけではなく、社会の様々なフィールドで活躍して、自分と周りの人々を幸せにするための力を養う手助けがしたいと考えております。(詳しくは当クラブWebサイトをみていただけると幸いです。)

 誤解を恐れながら申し上げると、競技力は二の次なのです。人間教育が先、競技力は後です。(誤解を恐れているので補足すると、競技力を全く志向しないのではなく、競技力向上に取り組む中で、人間性を育むことを目的としています。)

 なぜ我々が競技力より人間性を上位に置いているかというと、ほんの一握りのトップアスリートを除いて、競技力“そのもの”は、目の前の子どもたちの人生を豊かにすることを考えたときにあまりにも無力だからです。

 要は遊びと同じです。ゲームと同じです。「フォートナイトでビクロイしたからなんなの?収入が上がったり家庭が円満になったりするの?」ってことです。厳密に言うと、「フォートナイトで10回に1回ビクロイする実力を9回に1回まで伸ばしたからってなんなの?」ということです。
 遊びは楽しいし人生に必要ですよね。でもそれは遊びの効用であって、競技力“そのもの”の効用ではないのです。
 もちろん、競技力が高いほうがその遊びも楽しいでしょう。ただ、楽しさ度100の遊びを110にするのにどれほどの価値があるのか(このとき、競技力“そのもの”の効用は110ではなく10です)、ひいてはどれほどのリソースを費やすのかというのは様々な考え方があります。

 そして、競技力はせっかく身に着けてもあっという間に消えてなくなってしまうものでもあります。
 是非はさておき、日本の競技者は大部分が18歳で第一線を退きます。一生懸命続けていても、アマチュアとしてトップパフォーマンスを維持できるのは長くても30歳前後でしょうか。
 選手としてある程度完成するのが早くて16歳くらいだとすると、大部分はほんの1,2年、ほぼ全員が10年程度で積み上げた競技力は失われてしまうのです。

人間教育の意義

 一方、競技力向上の取組を通して、一見副次的に身につく人間性は、生涯にわたる財産として、目の前の子どもたちの人生を豊かにしていくものだという確信が我々にはあります。
 課題の発見・分析、チームメイトとのコミュニケーション、目的達成へ自らを奮い立たせる力、そして関わる人々に対してのリスペクト。子どもたちが我々のもとを巣立ったあとにどんな世界に進むとしても、どれも必要な資質ばかりです。
 そして何十年にもわたり、人生100年時代を生きる子どもたちの人生に価値をもたらすでしょう。

 このような人間性を獲得する人材育成は、今、世の中の至るところで必要とされています。
 専門職養成の観点では、医師だろうと教師だろうと介護福祉士だろうとエンジニアだろうと、ただ知識と技術を持っていればよいのかという議論が同時発生的に起こっています。
 学校教育においても、文部科学省が教育改革を掲げ、知識のみならず、思考力・判断力・表現力や人間性をより意識的に育んでいくよう様々な取組がなされています。

 そういう文脈のなかで、スポーツは一つの大きなアンサーとして、社会に価値を提供できるポテンシャルがあります。
 ペンシルバニア大学教授で、人生を成功に導く鍵として「やり抜く力」を研究してマッカーサー賞を受賞したアンジェラ・ダックワース博士は、その著書『GRIT』のなかで、「数年以上にわたる課外活動を絶対にやるべき」と説いています。
 学校教育でもアクティブラーニングの導入など様々な努力がなされていますが、私はやはり一貫した指導哲学のもとで中長期プロジェクトに取り組むことが理想であり、それを一定以上のボリュームで提供できる可能性があるのはまずスポーツだと考えています。(そのような理想的な指導環境が日本にどれだけあるか、増やしていけるかというのはまた別の議論になります。頑張ります。)

社会の中のスポーツ

 そこに実益的価値があろうとなかろうと、とにかくこの道を究めるというスタンスを否定はしませんし、ある意味尊いとも言えるでしょう。
 ただ、そのような「わかってくれる人がわかってくれればよい」という考えが支配的になると、スポーツは業界として先細りになる危機感が私にはあります。

 目的を持って持続可能的にスポーツ指導をしようと思うと、スポーツは支えていただかなければならない立場です。
 スポーツには施設が必要です。最上位目的が競技力だろうと人間教育だろうと、質の高い指導者を確保するためにもお金が必要です。そしてそれらを受益者負担のみで賄うのは無理(フォートナイトと決定的に違うのはここですね)ですし、福祉施設のように安定的に税金を投入する制度もありません。

 お金の使い道に困った経済成長期ならばいざ知らず、日本はどう考えても社会全体が先細りです。そこで「なんでスポーツなんぞみんなで支えなきゃならんのだ」と言われたとき、求道者スタンスだけでは持たないでしょう。

 例えば、文部科学省が公立教員の超過勤務のガイドラインを出したとき、スポーツの世界の人は「月45時間、年360時間までしか部活出来ないのか」と捉えがちでしたが、スポーツの世界の外から見れば「なぜ部活だけで上限いっぱい使うのか。というかそもそもなぜ部活で超過勤務までする必要があるのか。」と考えた方も少なくないでしょう。

 このようなスポーツ界の外からの視点や、社会全体の中でのスポーツの位置づけを意識することは、今後のスポーツの発展に欠かせません。
 ほんの数か月で社会がガラリと変わってしまった今の状況を見ると、今成り立っているものでも、いつ突然消えてなくなるかわからないことを実感します。

 「スポーツの人間教育的効果」を体現してアピールすることは、スポーツ指導者の仕事や存在の価値を高めるためにも第一の戦略になるのではないでしょうか。

※当クラブに興味を持っていただいた方は、是非当クラブWebサイトをご覧ください。

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