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ミュージカル『マイ・フェア・レディ』観劇。高い言語力を身につけた女性の行く先。

『マイ・フェア・レディ』との出会いは6〜7年前、大学の授業だった。映画を観てその作品の内容や時代背景等を考察するという、エンタメ好きの私としては非常に関心度の高い授業で、確かこの作品は講師の方が取り上げたものだったと記憶している。

オードリー・ヘプバーンが当時から好きだった私は、彼女ならではのチャーミングさに惹かれつつも、言い方が正しいかは分からないが“紳士が田舎娘を調教”していくというストーリーにかなり驚いた。

その時授業で観て以降、映画を再び観ることはなかったが、今年ミュージカルをやるとのことだったので、久々にこの作品を観てみようと思い、チケットを取るに至った。

※以下、ネタバレを含みます

ダブルキャストのうち、この日の出演者

コベント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス。終演後、劇場から流れ出てきた紳士淑女は、われ先にとタクシーを呼び止めようとしている。そんな人々にスミレの花を売り歩いているのはイライザ・ドゥーリトル(朝夏まなと/神田沙也加)。煤と埃にまみれお世辞にも魅力的とはいえない。タクシーを拾うのに気をとられていたフレディ(前山剛久/寺西拓人)はイライザにぶつかり、売り物の花が散らばってしまう。思わずフレディと母のアインスフォードヒル夫人(伊東弘美)を怒鳴るイライザ。その言葉はロンドンの下町言葉・コックニー訛りがひどく、とても聞けたものではない。そこへ通りかかったヒュー・ピッカリング大佐(相島一之)はイライザに花を売りつけられるが、その一部始終を物陰で手帳に書きとっている男がいた。男の正体は言語学者のヘンリー・ヒギンズ教授(寺脇康文/別所哲也)。あまりにイライザの話し言葉がひどいので、研究用に書き取っていたのだ。自分なら6か月以内に宮殿の舞踏会で踊る貴婦人に仕立てさせてみせる、と豪語するヒギンズの言葉に、イライザは興味深いまなざしを向ける。やがて意気投合したヒギンズとピッカリングは去っていった。
ヒギンズから思わぬ多額の稼ぎを手に入れ、上流社会の生活を夢見るイライザ。そんな彼女の前に清掃作業員の父アルフレッド・ドゥーリトル(今井清隆)が現れる。いつも娘から金をせしめようとする酔っ払いの父親にうんざりのイライザだが、そこは父娘の情。娘から銀貨1枚を受け取って、ドゥーリトルは大手を振ってパブへ入っていった。
翌日。ウィンポール・ストリートにあるヒギンズ家の書斎。ヒギンズはピッカリングを相手に研究成果を聞かせているところ。そこに家政婦のピアス夫人(春風ひとみ)が来客を告げる。やって来たのは精一杯の盛装をしたイライザ。レッスン料を払うからちゃんとした花屋の店員になるために話し方を教えてほしいというのだ。そこでヒギンズは、ほんの思いつきだった、《下町娘を貴婦人に仕立てあげる》を実行に移すことにする。ヒギンズの大言壮語につられたピッカリングはそれまでにかかる費用を全部賭けようともちかける。
こうしてイライザの奮闘が始まった。来る日も来る日も発音の練習を続け、そしてある日、とうとう正しい発音をマスターしたイライザ。勝利の喜びに浸るヒギンズは、早速、母親(前田美波里)がボックスを持っている、紳士淑女の社交場・アスコット競馬へイライザを連れて行くことにするのだが…。

公式HPより

この日、主人公のイライザを演じたのは、元宝塚歌劇団宙組トップスターの朝夏まなとさん(愛称まぁ様)。在団中の作品は生では観たことがないが、退団後にご出演されているミュージカル作品は生でいくつか観たことがあった。

『マイ・フェア・レディ』といえばチャーミングなオードリーの印象が強くあったが、まぁ様のイライザにはたくましくカッコいい印象。威勢の良いチャキチャキの田舎のねえさん。そんな表現が合うかもしれない。

まぁ様のイライザを見て、まず最初に驚いたのは、ものすごい訛り×ものすごい早口の掛け合わせである。作品の舞台はイギリスであるが、上演国は日本なので当然会話は日本語で、日本語のいわゆる強い訛りという感じ。それをものすごいスピードで一切噛まずにペラペラと話していく。様々な舞台作品を観ても、ここまで早いテンポ感で話す役と言うのは個人的にはほとんど出会ったことがないので、あまりの滑らかさに感動すらした。台詞回しの部分は相当お稽古をされた様子がうかがえた。

この日、ヒギンズ教授を演じたのは別所哲也さん。個人的には映像作品でのイメージが強かったが、舞台・ミュージカル作品に出てきたご経歴がかなりある別所さん。私は今回、舞台に立たれる別所さんを初めて拝見した。映像の方での印象と変わらない方で、言語学者のヒギンズ教授に相応しい貫禄。田舎娘を馬鹿にした階級差別意識も満載な役どころであった。

ヒギンズ教授の“下町娘を貴婦人に仕立てあげる作戦”に乗っかり、そのためにかかる費用を賭けようと持ち出すピッカリング大佐には、相島一之さん。一貫して下町娘としてしかイライザを扱わないヒギンズ教授に対し、他の人に対してと対応を変えることなく一貫して一人の女性としてイライザに接する役どころとして、ヒギンズ教授との対比を際立たせていた。


冒頭に記したストーリーの通り、下町娘のイライザを一流の貴婦人に仕立てあげると言う目的のため、言語学者のヒギンズ教授が彼女を言語の面で調教していくことをベースに物語が進んでいく。時代設定は1910年代前半のイギリスであり、さして昔のことではないが、現代日本人の感覚というフィルターを通して見た時に、やはりこれは異様な出来事だなと違和感を感じた。何が違和感なのかと噛み砕くと、主に以下のような事柄だろうか(言語学者と下町の花売り娘が街で出会うという、ドラマ要素部分への違和感は除く)。

①「地方の訛り=悪い」と捉えられている点
②「話す言葉が“汚い”=低い階級」「話す言葉が“正しい”=高い階級」と捉えられている点
(ここに関しては現代日本も比較的近いかも)
③富裕層と貧困層の明らかな経済力の差
④女性の役割の限定

1910年代前半という第一次世界大戦直前のこの時代においては、これらが一般的な価値観であり、実情だったのだろう。イライザにとっては全てが逆境である。つまり、この作品としてはこれらがテーマであるわけだ。

「レッスン料を払うからちゃんとした花屋の店員になるために話し方を教えてほしい」という純粋な思いのもと、(賭けとは知らずにだが)ヒギンズ教授の「貴婦人に仕立てる」という話にイライザは乗っかることになる。最初はあまりに訛りが強すぎて、一向に標準語になびく気配すらなかったが、非常に粘り強く格闘した結果、6ヶ月かかって完璧な標準語をマスターし、社交界デビューまで果たす。言葉も立ち居振る舞いも、完璧にできるようになった彼女は、昔の自分に戻ることなどもはやできず、自分はこれからどうしていけば良いのかと葛藤しているのが印象的だった。でもその葛藤の先に、ヒギンズ教授との言い合いが繰り広げられるが、言葉を教えてもらった言語学者であるヒギンズ教授のことすら言い負かすことができるほどに、彼女は知的で逞しい女性に成長していたのだ。

①の「地方の訛り=悪い」や、②の「話す言葉が“正しい”=高い階級」というなんとももどかしい枠の中ではあるものの、彼女は弛まぬ努力により非常な逆境を跳ね除けることができた。作中ではイライザとヒギンズが互いへの特別な想いに気づき、想いを打ち明け合い、ハッピーエンドというところで物語が終わるが、③の富裕層と貧困層の明らかな経済力の差や、④の女性の役割の限定という局面もあるこの時代で、その先イライザがどのように生きていったのかというのを是非見てみたいなぁという気持ちにさせられた。


使う言葉でその人が判断されてしまうというのは、この時代ほどではないが現代も同じようなことが言えると思う。個人的には、方言や訛りに対しての偏見は全くない。でも、言葉遣いが極端に悪かったり、語彙力がなさすぎて表現力が非常に乏しいような人に仮に出会った場合、自分が偏見を持たずにいられるかと言われるとそれは怪しい。

ただ言えるのは、良いか悪いかに関わらず、“言葉”と“その人に対する印象”は、いつの時代でも密接に結びついているということだ。きっとこれは、時代がいくら移ろいゆくとも人間の変わらない価値観なのではないかと思う。

そこまで強く結びついているというのは、きっと人間のみが発達した“言語”というものを持ったからだろう。なんだか人類学のようなところに行き着いてしまったけれど……言語というものが持つ強大な力について、考えさせられる機会となった。


このように論文のようなくどくどしい文章を、最後までお読みになった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました!

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