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ウーノ・クラミとピアノ協奏曲第2番

本稿は2017年2月26日に東京・第一生命ホールで開催された、アンサンブル・フラン創立40周年記念演奏会のプログラムに載せて頂きました。フィンランドの作曲家ウーノ・クラミのピアノ協奏曲第2番(ソリスト:秋場敬浩氏、指揮:新田ユリ氏) についての文章です。

はじめに

 ウーノ・クラミ(1900-1961)はフィンランドの代表的作曲家のひとりである。日本ではほとんどその名を聞くことはないが、その生前から確固たる高い地位と一般聴衆の人気を誇る、偉大な作曲家なのである。1953年にヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の聴衆が挙げる「シベリウス以降に自身が最も好むフィンランド人作曲家」として選ばれたのは他ならぬクラミであり、1959年には国内で最も権威を持つもののひとつであるフィンランド・アカデミーの会員に、唯一作曲家として選出されている。フィンランド国内においてはシベリウスに次ぐ名声を持つ人物と目されており、事実その演奏頻度も2017年現在において衰えてはいない。日本における北欧音楽演奏の旗手である新田ユリ氏率いるアンサンブル・フランがピアニストである秋場敬浩氏をソリストに迎えて演奏するウーノ・クラミのピアノ協奏曲第2番をはじめとして、本年にはフィンランドにおいても既にフィンランド放送交響楽団がピアノ協奏曲第1番《モンマルトルの一夜》、ソプラノ、バリトン、合唱とオーケストラのための《詩篇》の演奏を予定している。

 シベリウスに次ぐ世代が形作った1930年代は、極めて前進性のない不作の時代であった。シベリウスは最後の交響曲との苦闘と共に世間との交流を断ち、ひとつとして新作を生み出さなかった。世紀の変わり目にフィンランド音楽の黄金時代を築いた作曲家たちも既にピークを過ぎていた。新たな音楽を標榜した若い作曲家たちもいたが、独立を勝ち取ったばかりのフィンランドの民族的意識の強い聴衆には決して受け入れられず、20年代の旺盛な活動も虚しく、無理解のままにその急進性も失われてしまった。その中でただ一人、自身の音楽に翼を持たせ、新たな境地を飛翔し続けることができたのがウーノ・クラミであった。新しさを兼ね備えながら、保守的なフィンランド人の聴衆の魂にもその音を響かせることのできたクラミの音楽とはいかなるものであったのか。彼の生きた時代やその人生をもとにその秘密を探っていこう。

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Kuva: Aarne Pietiäinen Oy

クラミとその時代

 クラミがその名を世に知らしめたのは、1928年にヘルシンキで開催された自作品演奏会であったが、この頃の20年代末のフィンランドは、文化的には斜陽の時代にあったといえるだろう。1917年に独立を果たし、続く翌年に起きた痛ましい内戦が終結した後、20年代に入ると極めて前衛的な若い作曲家たちが著しい活動を始めた。彼らのうちのひとりである作曲家、エルネスト・パーングーが国際主義を掲げ、「民族的な芸術はすべての芸術の中の幼児段階である」と痛烈に批判しているように、彼らの音楽は明確な「非フィンランド性」を打ち出したものであった。しかしいかに内戦で深い傷を負おうとも、独立を果たしたばかりの国家において、シベリウスを代表とするようなフィンランドの民族的なロマン主義的理想は損なわれるものではなく、彼らはこれといった支持も得られぬばかりか非難の的となり、その前衛性も保守的なものへと姿を変え始めていた。かくして1930年代に入る頃には、フィンランドの作曲家たちは一様に過去の伝統に則った、古色蒼然とした音楽と価値観に停滞してしまったのである。

 こうした背景の中、クラミの音楽の方向性を決定づけたのは、1924年から25年のパリ留学中のことで、プロコフィエフやストラヴィンスキーのようなロシアのモダニストと、新しいスペインの音楽に、彼は全身を揺さぶられるような衝撃を受けたという。とりわけラヴェルに至っては《スペイン狂詩曲》を「世界一美しいスコア」と称するほどであった。1929年にはウィーンにも留学したが、そこでも彼の心を捉えたのはバルトークやラヴェルとの出会いであった。しかしクラミがここで魅了されたのは、彼らのそうした新しい音の使い方もあるが、それよりもむしろ「民族的な伝統」と「最新の音楽的傾向」という、これまで対極にあると感じていた二者が見事に融合し、輝きを放つようなオーケストレーションの上で息づいていることに対してであったのではないか。ストラヴィンスキーの《春の祭典》も原始的風景を当時誰も聴いたことのない音楽で昇華させたものであったし、ラヴェルの《スペイン狂詩曲》もスペインの民族的な主題を華麗な書法によって現代的に彩ったものであった。これらの音楽を通して、クラミが自身の持つ民族性、言わば「フィンランド性」に対する音楽的方向性を確立したことは想像に難くない。

クラミの音楽観

 クラミは自国フィンランドの音楽的傾向について、どのように感じていたのだろうか。クラミの代表作のひとつである《カレワラ組曲》第1版を書き終えた後、彼はインタビューに対し、「私はここで、自身のその他の作品と同じように、フィンランド音楽に対して特に国外で強く批判されている、重苦しく深いメランコリーをできるだけ避けることを試みました」と答えている。また、1950年代にこの作品を回想しながら「ひとり頂点に君臨したシベリウスの持つ領域の追求に埋没することへの危険に気づき、またその分野におけるそれまでの多くの努力の行きつく先は、結局のところぼやけた面白味のない音楽であることを悟った私は、全く異なるアプローチに着手したのです」と語ったことからも、クラミがもはや自国の民族的ロマン主義に限界を感じていたことが窺える。こうした伝統性と現代性という間で自身の表現方法を模索していた彼にとって、パリでの音楽の出会いの衝撃はいかばかりだっただろうか。この留学中、彼はソルボンヌの図書館でフィンランド人の精神的支柱とも言える叙事詩『カレワラ』を借り出しているが、その姿からはクラミの興奮と希望に満ちた様子が見て取れる。なぜなら『カレワラ』の音楽的表現こそ、シベリウスをはじめとする民族的ロマン主義による「聖域」であったからである。かくして生み出された彼の《カレワラ組曲》は、これまでとは全く異なる視点から捉えたもうひとつのフィンランドの姿として並び称され、現代までその名声と人気を博す作品となったのである。

 クラミはパリで出会った音楽的傾向を自身の血肉に変えていったように、生涯に渡ってありとあらゆる音楽を柔軟に吸収し、その都度取捨選択を繰り返してきた。その選択の基準は何だったのだろうか。一貫して言えることは、拍子感覚と調性感が保持されているかということであろう。彼はシェーンベルクを代表とする新ウィーン楽派における十二音技法には興味を示さなかった。ラフマニノフやチャイコフスキーのような、息の長い旋律線によるロマン主義的な感傷も好まなかった。プロコフィエフやショスタコーヴィチらの持つ力強さと明快さには敏感に反応したが、スクリャービンのような曖昧模糊とした神秘性にはあまりなびかなかった。こうした過程で自身の音楽を絶えず更新しながら、《チェレミッシュ幻想曲》(1931)、《海の組曲》(1930-31)、《レンミンカイネンと島の乙女たち》(1934)、序曲《荒野の靴屋たち》(1936)、ソプラノ、バリトン、合唱とオーケストラのための《詩篇》(1932-36)、《カレワラ組曲》(1933/43)、ヴァイオリン協奏曲(1943)、《北極光》(1946-48)、バレエ音楽《渦巻》(1957-60)など、1930年代における停滞期などものともせず、才気溢れる音楽を次々と発表しており、その中にはやはりフィンランドに主題を持つ重要な作品が多く含まれている。そうした連なりの中で、ピアノ協奏曲第2番(1950)は生まれているのである。

ピアノ協奏曲第2番

 1950年に行われたクラミ50歳の誕生記念コンサートで初演されたこのピアノ協奏曲第2番は、弦楽合奏とピアノ独奏という比較的小さな編成で書かれており、どちらかというと室内楽的な趣を持った作品である。オーケストラの色彩感を操ることを得意とするクラミにとっては、自身のその特性を減じて作曲したことになるが、彼はおそらく自身への挑戦としてこの編成を選んだと言えるだろう。というのもこの前年、1949年の秋に彼は半年間にわたる二度目のフランス滞在を行っており、その成果としての挑戦と言えるからである。これは1920年代の二度に渡る留学の後に書いた《ヘンデルへのオマージュ》(1931)が全く同じ編成で書かれていることからも窺い知れる。そしてそこから生まれ出る音楽は、一様に新古典主義的な性質を持っていることも興味深いことである。しかしこの両作品を比較するならば、その成果は明らかにピアノ協奏曲第2番で結実していると言えるだろう。そこにはプロコフィエフのような打楽器的なピアノの扱い方や、ガーシュインを思わせるような感傷性、ショスタコーヴィチ風の駆動するような辛辣なユーモアも含まれている。半世紀にわたりクラミが見聞きした膨大な数の音楽が、極めて有機的な繋がりを持ちながらこの協奏曲の中で結びついている。そしてその音楽的経験と共に、クラミ自身の人生に対する憂愁や喜びの深淵の拡がりもまた、その音に刻まれているのである。

 クラミの全作品の中でも、このピアノ協奏曲第2番はそれほど演奏頻度の高い作品とは言い難い。その原因は推測の域を出ることはできないが、恐らくピアノパートの演奏難度の高さにあるのであり、少なくとも音楽的な内容に乏しいことが理由ではないと断言してよいだろう。1950年の初演を終えた後、この作品はフィンランド国営放送を主体としながら、今日に至るまで五度にも渡る録音が繰り返されていることからも、その音楽的価値が聴衆に認められていることは明らかである。

 そのピアノパートの難しさの要因は、その大半がピアニスティックな書法で書かれていないということに起因する「弾き辛さ」からくるものである。しかしそれはクラミがピアノ演奏に精通していなかったということではない。クラミ自身が拠り所としていた楽器はまさにピアノであり、ヘルシンキ音楽院在学中にはイルマリ・ハンニカイネン、エルンスト・リンコという当時の名ピアニストであった教授陣の教育も受けていたし、彼自身も一時期は映画館やカフェ、ホテルなどで自身のピアノを弾くアルバイトをしている時期もあったほどだ。ではなぜこのようなピアノパートが生まれてくるのか。その理由は明らかにはされていないが、恐らく彼自身が作曲を行う際に浮かび上がるサウンドが極めて「交響的」であったからではないかと推測する。彼は幼い頃からピアノを弾くことを喜びとしていたにも関わらず、実際に彼の全作品を概観してみると、ピアノ独奏のための作品は実に数が少ないのである。このピアノ協奏曲第2番が限られた編成の中でオーケストラ以上の色彩を生み出すという挑戦の上に立っているとするならば、その書法が慣例的なピアノ書法に依るものではなくなるのも頷けるところである。その結果が演奏家に敬遠されることになってしまう原因なのだとすれば何とも皮肉な結末であるが、そこから生まれる音楽は今日においてもなお新鮮で魅力的に響くものであるのもまた確かなのである。

おわりに

 クラミは1900年にフィンランドの南東部にある小さな港町、ヴィロラハティに生まれた。フィンランドとロシアの国境付近に位置するこの町は小さくはあったが、ヘルシンキとサンクト・ペテルブルクを結ぶ交易の道の途上にあったため、多くの芸術家や文化人の往来も盛んであり、決して僻地ではなかった。遠洋漁業から帰ってきた者たちからは他国の文化についての話も多く聞くことができたという。農業が栄えていた土地でもあり、内地の話や農民の生活にも触れることもできた。クラミの両親はともに音楽家ではなかったが、父アントンは宴会の席ではフィドルを弾き、母アマリアはギターを傍らに歌を歌ったと言われている。こうした土壌から、クラミのコスモポリタンな性質と、フィンランドに対する民族的な精神の軸が同時に育まれていったのだろう。

 クラミは生涯において変わらず内気な性格の持ち主で、大変に無口な男だったという。そうしたクラミ少年が、ただピアノに触れたいという思いだけで、ほぼ毎日のように6kmも離れた農業学校に歩いていったという話を思うとき、その物言わぬ少年の胸のうちにはどんな宇宙が広がっていたのかと想像してしまう。そしてそのピアノを鳴らすとき、少年はピアノの音そのものを越えて、交響的な、いや、それをも越えた夢のような音の世界に旅立っていたのだろう。

 クラミの人生は決して平和に彩られた歳月ではなかった。4歳の時に父と妹を亡くし、彼の音楽に対する情熱を一手に支えてくれた最愛の母も、16歳の時に結核で亡くなってしまった。二度にわたる戦争や、痛ましい内戦で親しい知人を亡くしたこともあっただろう。クラミの音楽には常に喜びがあり、ユーモアに富んだ明るさや力強さが感じられるが、どこかに彼の持つ、傷つきやすい繊細な心の動きを感じずにはいられない。その悲しみともいえる本質的性格が他ならぬフィンランド性なのであり、それが今日においてもフィンランド人の共感を生み続けている秘密なのだろう。

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 フィンランドにおけるクラミの人気はこれからも続いていくであろうし、本演奏会のピアノ協奏曲第2番について聴衆の再評価が広がっていくのはこれからのことなのかもしれない。その一歩目として、日本においてこの作品が演奏されるというのは大変意義深く、大きな前進となることだろう。クラミの時代はさらに未来に向かって広がっているのである。


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