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議論を活性化するたった一つの心構え

「参加者のみんなから意見が出てこない」
「皆、何も考えていないんじゃないか」
「上の顔色を窺わずに遠慮なく忌憚のない意見を言ってもらいたい」
会議において参加者から意見が出ないで黙っている状況を目にしたリーダーからこんな声をよく聞きます。

心理的安全性がないからだとか、複数の人がいる会議の場では言いにくいとか、そもそも突然言われてすぐ出るものではないとか…
理由も見方もいろいろあると思います。

こんなコラムを見つけました。議論が活性化してゆく過程で起きていたことをコンサルタントの視点で描いています。

本文より引用です。
「目からウロコでした。 最初に発言した若者は、キャッチコビーの案が稚拙だったとしても、会議を活性化させ、最終的に新しい施策にたどり着くきっかけを作りました。これこそ、賢いふるまいなのです。」

稚拙な案を出すことが賢いふるまいである。
え?どうして?と思う方もいるかもしれませんけれど、人事として色々な組織の会議をオブザーブしたりファシリテートしている私もこの考え方にはすごく共感します。

どういうことなのか、ちょっと深掘りしてみましょう。

議論のきっかけを作る、ということ

コラムの中では、部門長さんの言葉として以下の発言が出てきます。

「どんな仕事でも、一番偉いのは“最初に案を出す人”なんですよ。批判なんてだれでもできる。でも、"最初に案を出す"のは勇気もいるし、なにより皆からバカにされないように一生懸命勉強しなければいけない。だから、 最初に案を出すやつを尊重するのは仕事では当たり前です」

ごもっとも、と思います。
そして私は、勇気はいるかもしれないけれど、別に「馬鹿にされないように一所懸命勉強しなくてもいいのではないか」とも思います。

さらに言えば、本当にオープンなアイディアというのは何かを勉強してきて出てくるというよりは却って思いつきから生まれてくるのではないでしょうか。
決して勉強は不要とまでは言いませんし、何を勉強してくるのかにもよりますけれど、クリエイティブなアイディアというのは過去に誰かの考えのコピーではないでしょうし、それはあくまでもヒントの一つだと私は考えているからです。

私が会議のファシリテーションを行うときは、誰も発言をしなかったり意見が出てこなかったりすると、敢えて「極端な意見」で場をかき乱すことをします。
人事として入っている私は門外漢なので、詳しい事情はわかっていませんけれど、率直に疑問を思ったことや浮かんだ発想を多少捻じ曲げて極端にして提示してみます。私はこれを「煽り」と呼んでいます。

例えば、代理店を通じてものを販売している事業体において、代理店の動きが良くないみたいな話になってきた時に、
「代理店にインセンティブ出せないんですか?」
「代理店すっ飛ばしてお客さんにアプローチするのはどうなんです?」
みたいに。

今までやったことがないだろうことは分かっていて言っていますし、頭の中である程度「まぁ、それができないから困っててみんなで考えているんだろう」ぐらいは思っていますけれど、それを確かめる意味もありますし、何よりも皆の口を開かせるのが「煽り」の目的です。

当然のように、反論が出てきます。
「ご存知ないんでしょうが…過去にやっててうまくいかなかったんです」
…みたいに前置きをつけてくる人もいます。
そこで怯まず、「え、どうして上手くいかなかったんですか?」と問いかけてゆくと、そこから議論は展開してゆきます。
施策が失敗した理由、その理由は今も顕在なのか、その原因はどのようにして取り除ける可能性があるのか…などなど。

これが議論です。
議論のことを英語ではdiscussionと言いますね。このcussionという部分には「ぶっつける」とかの意味があるらしいです。打楽器のことをパーカッション(Percussion)とか言いますよね。まさにそれです。
意見と意見をぶっつけ合う。当然そこに音(反響)は起きる…
むしろ起こしに行くような心構えで議論の場には臨むものではないでしょうか。つまり、自分が言ったことに対して音が出ることを恐れるものではない、ということなんです。

生煮えで出す

いやいや、そう言われてたって、場を荒らすみたいな発言は良くないよ…
…と思われるかもしれません。

ちょっと譬え話をしましょう。
私は、トレーニングや研修などで、議論の場を「お料理」に喩えて説明することがあります。
そうですね…
煮込み料理を作っている、みたいな感じをイメージしてもらうと良いでしょう。
あ、鍋料理とかでもいいです。

鍋って皆で突きながらいただくもの、まだ火がとおり切っていない生煮えの状態で卓の上に乗せられますよね。
その中にさらに具を入れてゆく、場合によってはアクを掬ったりする…
煮たってるかはみんなが注目してるし、出汁の味が濃くなりすぎないかとか味見をすることもあるかもしれない…そうしてるうちに具材からも味が出てくる。
次第に煮詰まってきて、具材の柔らかくなってきて、だんだんいい感じの味に仕上がってゆく…

最初から出来上がった料理を出せば、人によって美味しいとか美味しくないとか、味が薄いとかしょっぱすぎるとか…になるでしょう。せっかく作った料理をそのように言われてしまうと作った料理人は悲しくなったり自分を責めたりするかもしれません。
一方、鍋の良いところって、みんなで一緒に煮詰めてゆきながら、美味しいものに仕上げてゆくところではないでしょうか。

議論も一緒だと私は思います。
最初から完成した料理(結論)を出して、それでみんなが美味しい(納得)するのであれば議論などする必要はないのです。誰かが決めてみんなが従えばそれで終わり。
議論をする目的は、結論や正解のない、ないしは分からないものに向かって皆の具材(知恵)を出し合って、それらが融合して答えを仕上げてゆくところにあります。そして、その答えが出るまでの過程にも価値や楽しみがあります。

すなわち、議論においては、それぞれの意見は生煮え(未完成形)で出す方が良い、と私は考えています。
そうすれば、皆で意見を完成させる方向に話し合いが進み、全員参加型で皆のコンセンサスが得られる結論へと導かれるはずではないか、と。

ここで肝心になってくるのは「生煮えの意見を出す」勇気でしょう。
未完成でツッコミどころ満載の意見を出すのは恥ずかしいかもしれないですし、誰かに叱られたり馬鹿かと思われることを恐れる気持ちもあると思います。
やはり、会議の場では、賢いと思われたいでしょうし、いい事言って点数上げようとか思うのが自然です。

でも、こう考えてみてください。
だって、未完成だと分かってて言ってるんですから、そこで傷つく必要はありません。
なんなら、最初に一言断ってから言ってもいいんです。
「分かんないけれど、こうなんじゃないかって思うんですよ」
「間違ってたら教えてもらいたいんだけど…」
みたいに。

賢さよりも勇気こそ賞賛されるべき

最近あちこちで「心理的安全性」という言葉が聞かれます。
そして、それを作るのはリーダーの役割だ、なんて言ってたりします。

私に言わせれば、心理的安全性は誰かが作り出せるものではなく、皆んなが一緒になって作ってゆくものであり、そこで必要になってくるのは最初から完成を求めない許容の精神と一歩前に踏み出して思ったことをいう勇気のはずです。

世の中の変化は大きく速く激しくなってきています。
ちょっと前に正解だったことは、今では間違ったことになってしまうこともしばしばあります。
現代では正解は誰かが持ってくるものではなく、皆で作ってゆくものになっているのではないでしょうか。

状況によっては、意見はその質より量の方が大事な時もあるとさえ私は考えています。
質が低いと思えるような意見であったとしても、得てしてそれの掛け合わせで画期的なアイディアは生まれるものですし、それこそがイノベーションではないでしょうか。

だからこそ、議論をするために、その場に居るのに意見を言わないなんてあり得ないと思います。
なぜならば、どんな意見でも考えでも愚かということはないからです。そういう見方をする人が世の中にいるのだというのがわかるだけでも価値があります。むしろ愚かだと一刀両断する人の方がその見方を寛容できない分だけ愚かかもしれません。
言語化の力の弱い人もいるでしょう。それでも、何か言おうとして言葉を発する勇気こそ、言葉の中身よりも賞賛されて然るべきではないでしょうか。


以前、効果的なブレイン・ストーミングのやり方というnoteを書かせてもらいました。
(そちらは有料の記事ですのでご注意ください)
たくさんのアイディアをどのようにして出し、統合させてゆくかのやり方を三つのステップでまとめています。

私はブレイン・ストーミングも通常の会議も、生煮えの意見を出すという意味では同じではないかと思っています。
そして、ここはテクニックの問題ではない、ですね。

議論の場は勝ち負けではありません。
会議によっては前もって考えてアイディアを持って臨んでくれとか言われることもあるかもしれませんけれど、それの中からどれが採用されるかなんて議論のやり方をしていたのでは、所詮は一人のアイディアの大きさしか出せないのです。場合によっては、それすら皆の批判を受けて角が取れて無難な意見にされてしまうかもしれません。
そうやって、どんどん議論そのものとそこからのアウトプットが小さくなってしまっていませんか?

生煮えの意見を誰かが出せば、「そんな意見でいいんだったら自分にだって」と意見が言いやすくなる人が出てきて、皆が話し始めれば場が温まります
それはそのまま決定事項に対するコンセンサスを作り、行動へのコミットメントのエネルギー源となります。

そうやって皆でいい考えが作れたと思える体験ができた時に、真の意味での心理的安全性が生まれるのではないでしょうか。
仮に結論は一つでも、そこに至るまでの議論に自分が参加してたことは、大切な仲間の一人であるという実感(インクルージョン)を得ることにもなります。

意見が行き交い、煮詰まるからこそいい味が出てきます…
ほら、鍋料理の後の雑炊だって、色々煮込んだ後だからこそ、間違いなくホッとするような美味しい味がするじゃないですか。

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