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no pice of bake.

未練がないと人は生きていけないのかもしれない。
いや、未練があっても終わるときは終わるが。

しにゆく心地でこれを綴っていた。
過去形であるのは書き始めた当初がゴールデンウィークあたりで、現在進行形未だ書いてる現在時点では特段そんな気持ちがないからである。
おかしいなぁ、あんなに先が見えなくて茫然としたのは初めてだったのに。
お先真っ暗ならぬ真っ白。なぁんも決まらないどうなるかわからない。右も左もどうなるかわからない。だから、死ぬのだと思った。
実際は、ちっとも死にやしなかった。
むしろ、今していることはこれからまだ続く人生を生きるためにいることと認識している。
自分の道の決定打はいつだって自分で下している。

夏になる前に、生活環境が変わった。
それはもうがらっと。
住んでいる場所、食べ物、生活音、生活のためのあれこれ。
住み慣れた家、キッチン周り、溜まってきた店のポイント、長期的にやろうとして残っているものと、やり残したたくさんのことを置いて、さよならをしなければならなかった。
降って湧いた転勤問答の回答結果は何故かすんなり通り、色々なドタバタを経て私は現在異国にいる。
さらば故郷、ぶっちゃけ私もどうしてこうなったか分かっていない。いやもっと適材な人ならいたはずだ。いつか海外で仕事したい、なんなら年内に準備するかの気持ちでいたらこうなった。一番驚いて受け入れているのは自分で、ああ私ならやりかねないと何となく諦めの境地にさえある。可笑しさも驚きも置いてきたものに対する未練さえ何となく抱えて今これを記している。
まこと人生とはどう転がるかわからない。



さて、ばったばたな準備期間だったので色々やり残しが多々あった。いわば未練である。
何年か勤めた職場で、いざ最終日という日は帰る瞬間まで仕事をしていた。本当に終わらなかった。それまで早くに行ったし帰りも出来るだけ粘ったけれど、終わらない終わらない。機材トラブルは多発するしけれどやることはいつも通りしなくてはだしミスは多発するしでてんわやんわだった。こんなことある? なんか憑いているのでは? 割と思ったし同僚にも言われた。自分がトラブルメーカーだと思いたくはないが、変な星の元にいそうな気は割としている。
そんなこんなの最終日、定時になって、上がる時間になって、職場の人にも、作ったお菓子もう食べられないんだねと言われ(私は度々お菓子を作っては職場にもっていくことがあった)、何故だが積み上げていた壁が崩れた。さびしいのか、かなしいのか、私はこの人たちを置いていくのに。一人だけ別のところに行くのに。自分勝手な感情だと思う。さびしさは大体遅効性でやってくる。明日ふらっと来てそうと言われた。ほんとうに。私もそう思う。

出立までお世話になった場所では、今までお世話になった方々と話す機会があって、話す度に、悲しいや嬉しいや、辛かったのか独りよがりだったとか、自分勝手で視野が狭かったとか、綯い交ぜになって押し寄せて、一人でひっそり泣いていた。あんなに悲喜交々になったのはこれまででもこの先でもそうない。ないと思いながらも、表面張力に負けないようにしていた。(鼻はあっさり負けた。万年鼻炎にこっちは騙せなかった。
私の根っこは泣き虫に違いなく、ただ耐えることにも慣れてきてしまっている。これはある種の大人になるということかもしれないし、元来の自分を少し緩められているのかもしれない。

さびしさは大体遅効性でやってくる。思春期から青年期、泣きたい時は山ほどあって、けれど何故だか泣いて良い時に限って涙が出ない。情は傾けるものである。私は私なりに、情を傾けてきた。ひとに、ものに、きおくに。悲しい時も嫌な時も痛い時も散々泣いてそんなんで泣くもんじゃないって言われ、耐えるようになるのは大人の階段を登るのと同じだろう。けれどやっぱり耐えられる程の精神性を持ち始めても、泣きたくなるのは人のは性だ。泣けるなら泣いた方がいい。何よりすっきりする。状況がそれを許さないなら、泣ける時に泣いて欲しい。選ぶのはあなただから、こうしなさい、とは言えない。あなたの良きように選んで欲しい。私は泣きたくても限界まで泣かない仕様らしいので、泣けそうな時に泣くことにする。
お世話になって、沢山迷惑かけて、なんなら傷つけたり、それでも置いていく自分を、出来るなら記憶の片隅に置いて欲しいし、無理そうなら完全に捨てて欲しい、と思う。上手くできない人間性のまま、だいじにかかえてきた私の性格に付き合うことなく、しがらみの一つに加えずに、さっぱりと明日を生きて欲しい。この時点で傲慢であるのはわかってはいるが、思わずにいられないのも人であるように思う。

ぱたりぱたりと開きかけの絵本を閉じていく。綻びなく。隙間なく。気持ちと記憶をダンボールに入れてひとまず終了、帰ってきたらときには朽ちているかもしれない。その時はお焚き上げといきましょう。
それらを経て、私はやっとさびしさを覚えるだろうか。
にぶくてさびついたひとみまんのこころを動かせるだろうか。そうであってほしい。置いていくのだ、せめてそれくらいなければ割に合わない。(何に? 私の人生に。
気持ち的未練ばかりの現状に、果たして誠意はあるのかと言われたら上手く返せる気はない。仕事するために来たし、それのみ全うしたいと思っているが、諸々未消化でこっちに来てしまった。靄りと唸りが同居している。蟠りがないのが一番だ、けれどそれは私の暴走し易い行動原理のストッパー役にもなっているので、結果的には良かったのかもしれない。

上手い生き方なんて未だわからない。だから恐らく、側から見たらこうしたらいいのに、と思われることが多いと思う。
最適解がわからず選べず、ただ目の前にある選択肢を狭い視野で掴む。他にあったのかもしれない。他の人ならもっといい方法を見つけられたのかもしれない。たらればはメビウスの輪の如くぐるぐる回る。
生きるためにはぶった斬ることも必要で、そうでなければ前に進めないはずだ。時には視界を塞いで歩くことも、周囲の音を故意に聞かないことも、勢い任せで走ることも。足元が絡まって進めないなど、言ってはいけないのだと。ずっと思っているし、これからもそう思い続けるだろう。
一つ選んだならその後にはやはり複数の選択肢が並ぶわけで、私たちは大なり小なりそれを毎日毎分選んでいる。小さいと思えたそれは意外と大きくて、気付いたら引き返せないところまで来ている。(かく言う私は今回その口である。しかし以前から予定していたことが少し早まるぐらいだからと覚悟を決めたのも事実)
流されてきた感覚はある。誰かの思惑に左右されている気はたくさんある。けれど、それでも、自分で選んだ責任は持つべきだ。
良かったかどうかは今はまだわからないし、通過点にすらまだ行けていない気しかない。
好きなゲームに、これはお前が始めた物語だろ、という台詞がある。有名なアレ。始めたのは自分だ。小さくても選んだのが自分なら、その責任と実行は伴うべきではないか。

言いたい言葉を、すべての人に言えなかった。だから、私は割り切れないままこの場にいる。
簡単ではないとつくづく思う。色々な要因が雁字搦めになって、面倒なことこの上ない。選んだものが予想より大きく、どうしたもんかなぁとなっている現状ですらある。しかして、人生一回こっきりなのも事実なので、やり切れるだけやっていきたいと思う。私はまだ、旅の途中なので。

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