見出し画像

自分の“心のよりどころ”を探し、積極的に確保していくこと

特定の宗教に、多額の献金をし続け、
のめり込んでいくその姿は、

執拗に、怨恨ターゲットに、
執着していく姿と、どこか酷似している。

前者は、親族にまで迷惑をかけ、
自己破産をしても、なお、
教団とのかかわりを断ち切れないでいる。

そして、後者は、多くの人に、
悲しみと恐怖を与えただけでなく、
前代未聞の大惨事となってしまった。

政治の問題でもあり、
宗教の問題でもあり、

そして、

社会や人間関係の問題でもあり、
何より、“自分の心の問題”でもある。

配偶者や子供、両親の死、
または、仕事や人間関係の行き詰まり等、
自分にとって、不幸な出来事があって、

心に、ぽっかりと穴が空いたような
感覚だろうか・・・

そこに、“心のよりどころ”となるような、

例えば、耳障りの良い“教義”を聞かされ、
自分の心の穴が、
特定の宗教にはまれば、

徐々に、
その宗教に洗脳されていき、
教団へ寄付することが、
教義の布教をすることが、
信者を勧誘することが、

正しいことで、幸せなことなんだと、、、
“信じ込んでしまう”のかもしれない。


その一方で、多額の献金によって、
自分の人生を破綻させられた怒りは、

強い怨恨へと変わり、

自分の人生を破綻させた首謀者に、
刃を向かわせる。

転落した人生に、どうせ、
守るものなんかは、何一つ無いので、

ミッションは、ただ一つ、
首謀者の首を取る。
ひろゆきさんの言う、
“無敵な人”へと変身していく。

いつしか、
“怪しい宗教”が自分の居場所となり、
“怨恨ターゲットの銃殺”が、
人生の目的となっていく。

こうなる前に、
社会が止められなかったのだろうか・・・

残念ながら、この現代社会においては、
難しいのかもしれない。

必死に変えようとしてくれている人もいるが、
政治も宗教も、
どちらかというと、及び腰のように見える。


よって、自らが、積極的に、

自分の“心のよりどころ”を、
探し続ける。

自分の“心の受け入れ先”を、
探し続けるしかない。

決して、依存するのではなく、
決して、のめり込むのではなく、

嫌なことがあるかもしれないけど、
良いことばかりではないけど、

それでも、世の中、
社会や人と、関わっていく中で、

自分の居場所、
自分の心の置き場所が、

自分から積極的に動くことで、
それなりに、
見つかっていくものだと思う。


怪しい勧誘なのか、
耳障りの良い話だけなのかを、

確認する意味でも、
人付き合いや、
一定の常識、社会性は必要なのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?