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Strings

 当時、勤務地が渋谷だった。峰葬一は、昼休みになると、いそいそとレコード店にいく。めざす店は、ディスクユニオンDP1である。ディスクユニオンお茶の水駅前とか、ディスクユニオン吉祥寺店とか、たいてい地名が入っているディスクユニオンにしては、ローマ字と数字の組み合わせは、珍しい。DP1というビルに入っていたからDP1と名前がついているのだ、と人から聞いたことがある。昼休みが終るころ、ディスクユニオンの黒と赤のロゴが入ったレコード袋をぶらさげて職場に帰る。会社の人間は不審そうな目つきで、ちらちらと葬一を見る。レコードを買う人間が信じられないのだろう。
 プライベートで、さまざまなものが失われてきた葬一は、軽い疎外感を覚えながら、デスクについた。

 勤務先は、大手の銀行だった。多くの人々が働いていて、そのなかには、音楽(特に洋楽)が好きな人間もいる。
「なにを買ったの?」
 買ってきたレコード袋の中身をのぞかれることもある。
「これはFragileというレーベルのレコード。Transmatのサブレーベルだな。デリック・メイのレーベルだよ」
 得意そうに葬一はいう。
「デリック・メイ?」
 その人間は、知らないようだった。
 渋谷のタワーレコードやHMVで、数時間もかけてヘッドフォンをして試聴するような音楽ファンである。そのかれがデリック・メイを知らないとは。
 テクノといったらデリック・メイ。日本でもっとも人気のあるテクノ(ハウス)のクリエーター、DJのひとりではないか。

 デリックといえば、数多い名曲のうちでも、やっぱり、Strings of Lifeがベストである。発売は1987年。
 リリース当時、この曲を聴いた日本人がいったいどれくらいいただろう? 
 渋谷のレコード店にこまめに通っていたケン・イシイなど一部のコアなテクノファンはすばやく発見して聴いていた、とインタヴューで発言していたが、多くの人は気がつかなかったのではないだろうか。
 当時、テクノポップというジャンルは流通していたが、テクノというジャンルはなかったし(もっとも輸入レコード店にはそのときにすでに「テクノ」とレッテルが貼られたものがあった、とケン・イシイはインタヴューで発言している)、輸入レコード屋への入荷枚数も、おそらくはきわめて少なかったのではないか。
 葬一が初めて聴いたのも、1990年代に入ってからである。
 それまでエイフェックス・ツインやブラック・ドッグなどのイギリス産のアンビエントテクノを聴いていた葬一の耳は、感情的なピアノのメロディーと、ダンストラックの組み合わせに驚いた。

 Strings of Lifeは、1989年のイギリスのアンダーグランド・ウェアーハウス・パーティーでは、一晩に7回もプレイされ、しかもかならず泣いているやつがいた、とソニーの日本編集版の「Innovator」の解説には書かれている。

 デリック・メイの実際のDJは数回、聴いたことがあるが、デリック自身がかけるStrings of Lifeは、聴いたことがない。
 
 この曲は、数え切れないくらい聴いたが、いまでもあのイントロのピアノのメロディーが鳴りひびくと、心が高鳴る。葬一の琴線に触れ、共鳴する。
 あのピアノのメロディーをずっと聴いているだけでも飽きない。
 初めてStrings of Lifeを聴いたときから、葬一が置かれた状況はとりかえしがつかないくらい変化しているのに、1987年に作られたあのピアノのメロディーだけは普遍的な美しさと、聴く人をわしづかみにする何かを持ちつづけている。
 あるときには激しく、そしてあるときには切なく。
 
                        (「土地と幻想」1)


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