自己犠牲の代償
私は完璧主義だ。
(と、私よりストイックな方は溢れるほどいるし、そんな人に言ったら怒られてしまうだろうが)
どのあたりでそういうのを感じるかというと、例えばこのnoteも、ちゃんとネタがあって、ちゃんとオチがあって、じゃないと書いてはいけないと思っている。
でも、今年は1週間に一回はアウトプットする、なんて目標も立ててしまった日には、もう自分の逃げ場はない。
どんなにつまらないものでも、オチがなくとも、書かねば。
これでも、だいぶ完璧主義は薄らいだ方で、以前は
「自分で立てた目標すら達成できない私はダメ人間だ」
と自分を余計に追い詰めていた。
そりゃ、人生が楽しいと感じられるはずがない。
外では、他人様の顔色を読み、私といる時間は出来るだけ居心地よく過ごしていただけるよう道化師になってみたり、
帰ってきたら、自分が自分を追い詰めてくる。反省しなさい、あなたなんて生きてる価値がないんだから。さぁ、どこがいけなかったと思う?あの人、あの時表情が曇ったよね?私の発言のどこがいけなかったんだろう…?
さぁ、もっと。良くならないとだめ。
さぁ、もっと、もっと。
私はただの他人を喜ばせるための機械と化していた。
それこそが、私の人生の目的だと思っていた。
憧れは、ガンジー、マザーテレサ。
私の欲求なんて、意味も価値もないと思っていた。
でも、たまに爆発する抑えられない感情に、自分でもドン引きしていた。
その感情こそが、私が見ないふりをして、無条件に我慢した、私の欲求の蓄積だったのだ。
爆発するころには、もう何がなんだかわからなくなっていたけれど。
そうなるまでに、どこかで他人に譲った、我慢したというところがいくつかあったのだ。
それにより、「私、我慢してあげた」、という感情が否応なく生まれていたのだ。
「否応なく」というのが重要なんだと思う。
以前の私だったら、この感情を感じることさえも、抵抗し、否定し、信じないと思う。
もし、その感情にまつわる不満が解消されたり、報われることがあるのなら、全く、問題ないのだと思う。
私はただの人間だ。
それこそ、自己犠牲を生きた先人たちに憧れてしまった、その人生を素晴らしいと思ってしまった、だけの、ただの人間だ。
正直、私が我慢した相手は明日食うものに困ってるわけじゃないし、それこそ誰かのお土産のプリンの味を選ぶくらいのレベルの話ではないだろうか?
なぜそんなことで、我慢する必要があるのだ。
食べたい味があるなら、ただ食べたいと言えば良いではないか。
でも、それが「他人様優先、自分はいつだって駄目」の人には難しいことなのだと思う。
ただ、時々爆発する感情があるなら、それに困ることがあるのであれば、
自分のふとした我慢を、気にかけてやってもいいんじゃないかと思う。
ご興味を持っていただきまして,ありがとうございます。 実はまだ学生です。もし,よろしければ,サポートいただけますと嬉しいです。ちょっと美味しいものを食べたいです。