自分を生きることを始めてから、時間が足りない1
時間が足りない。
気づけば他人の動向に振り回される人生だった。
mixi, twitter, Facebook,instagram
これといった更新はないのに、開いては閉じて、開いては閉じて。
別に楽しくなるわけでも、幸せになるわけでもなく、むしろ羨ましいとか、もっと頑張らなきゃとか、全然がんばってないなとか、焦りだけが募るのに。
やめられないのだ。
そういえば、SNSが流行る前から、子どもの頃から、
こうしたほうがいいだとか、こうするのが正解、を、ずっと探していた気がするし、今も探している気がする。
占いだとか、おまじないだとかにハマっていた時期もある。
占いは、こうしたほうがいいだとか、ここは気をつけた方がいいを教えてくれる。
おまじないは、自分の望むように他人を動かせる方法がある。好きにさせるとか、友達になれるとか。
そうだ、私のもっぱらの関心事は、他人の興味や関心を引きつけ、良い評価をもらうことだったのだ。
「みんなにすごいって思われる」
それだけが、私の望む全てだった。
今だってそうだ。私を他人が賞賛する場面を想像する。
それが叶わないと思うと、自分の人生がちっぽけで、味気なくて、しょうもないもののように感じてしまう。
ここで、ふと気づく。
私は、他人に良いと思ってもらうために生きている。
私の人生は他人から意味があると思われないと、意味がない。
だから、SNSで、他人の人生を覗き見る。
私は合っていますか?
と。
たぶん、私はどこかのタイミングで、私の人生を生きることを放棄したのだ。
私の決めたことから成り立つ人生は、ちっぽけで、意味がなくて、他人から否定されるものだ、と自分で決めつけたのだ。
生きた心地はしなかった。
時間だけはたくさんあった。
他人に望まれることしか、してはいけないと思っていた。
自分のしたいことなんて、何も浮かばなくなっていた。
ベッドに転がり、あの日失敗した友達とか、先輩とかとのやりとりとか、ずっと頭の中でぐるぐるさせていた。
でも、もうやめたのだ。
誰かの評価なんて、誰かの機嫌とか感情とか記憶とか、そんな曖昧なもので、私とは関係のないところで、ほとんど決まるのだ。
人は皆、自分のことしか考えちゃいないのだ。つまり、ほとんどの人は、自分自身について良く見られたいと考えているわけで、他人を良く評価したいなんてこれっぽっちも考えちゃいないのだ。
むしろ、自分のプライドを維持しようと、他人を蹴落とし、わざわざ粗探しして、否定することを選ぶ人さえいるのだ。
そんな中で、他人に許されたことだけをやる、のは勿体無いのではないだろうか。
何を隠そう、この人生を生きなければいけないのは自分なのだ。
他人が「良い」と言っているをやって、それをやってるんだとその人にお伝えしたところで、
「へぇー、俺そんなこと言ったっけ?笑」って言われるのがオチなのだ。
結局、他人が関心があるのは、その人自身のことで、その人自身に関する記憶しか残らない。
されば、自分だって、自分のために時間を使えばいいじゃないか、と。
自分がやりたいと思ったことを、やればいいじゃないか、と。
しかし、これまで、自分がやりたいことなんか、思い浮かびもしなかった人が、突然やりたいことを思いつけるはずもない。
自分のやりたいことを見つけられるようになった話は後に回す。
とりあえず、SNSを見すぎるのはやめたい。
ご興味を持っていただきまして,ありがとうございます。 実はまだ学生です。もし,よろしければ,サポートいただけますと嬉しいです。ちょっと美味しいものを食べたいです。