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自分を生きることを始めてから、時間が足りない1

時間が足りない。

気づけば他人の動向に振り回される人生だった。

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これといった更新はないのに、開いては閉じて、開いては閉じて。

別に楽しくなるわけでも、幸せになるわけでもなく、むしろ羨ましいとか、もっと頑張らなきゃとか、全然がんばってないなとか、焦りだけが募るのに。

やめられないのだ。


そういえば、SNSが流行る前から、子どもの頃から、

こうしたほうがいいだとか、こうするのが正解、を、ずっと探していた気がするし、今も探している気がする。


占いだとか、おまじないだとかにハマっていた時期もある。


占いは、こうしたほうがいいだとか、ここは気をつけた方がいいを教えてくれる。

おまじないは、自分の望むように他人を動かせる方法がある。好きにさせるとか、友達になれるとか。

そうだ、私のもっぱらの関心事は、他人の興味や関心を引きつけ、良い評価をもらうことだったのだ。

「みんなにすごいって思われる」

それだけが、私の望む全てだった。

今だってそうだ。私を他人が賞賛する場面を想像する。

それが叶わないと思うと、自分の人生がちっぽけで、味気なくて、しょうもないもののように感じてしまう。


ここで、ふと気づく。

私は、他人に良いと思ってもらうために生きている。

私の人生は他人から意味があると思われないと、意味がない。

だから、SNSで、他人の人生を覗き見る。

私は合っていますか?

と。


たぶん、私はどこかのタイミングで、私の人生を生きることを放棄したのだ。


私の決めたことから成り立つ人生は、ちっぽけで、意味がなくて、他人から否定されるものだ、と自分で決めつけたのだ。

生きた心地はしなかった。

時間だけはたくさんあった。

他人に望まれることしか、してはいけないと思っていた。

自分のしたいことなんて、何も浮かばなくなっていた。

ベッドに転がり、あの日失敗した友達とか、先輩とかとのやりとりとか、ずっと頭の中でぐるぐるさせていた。



でも、もうやめたのだ。

誰かの評価なんて、誰かの機嫌とか感情とか記憶とか、そんな曖昧なもので、私とは関係のないところで、ほとんど決まるのだ。

人は皆、自分のことしか考えちゃいないのだ。つまり、ほとんどの人は、自分自身について良く見られたいと考えているわけで、他人を良く評価したいなんてこれっぽっちも考えちゃいないのだ。

むしろ、自分のプライドを維持しようと、他人を蹴落とし、わざわざ粗探しして、否定することを選ぶ人さえいるのだ。

そんな中で、他人に許されたことだけをやる、のは勿体無いのではないだろうか。

何を隠そう、この人生を生きなければいけないのは自分なのだ。


他人が「良い」と言っているをやって、それをやってるんだとその人にお伝えしたところで、

「へぇー、俺そんなこと言ったっけ?笑」って言われるのがオチなのだ。

結局、他人が関心があるのは、その人自身のことで、その人自身に関する記憶しか残らない。

されば、自分だって、自分のために時間を使えばいいじゃないか、と。

自分がやりたいと思ったことを、やればいいじゃないか、と。


しかし、これまで、自分がやりたいことなんか、思い浮かびもしなかった人が、突然やりたいことを思いつけるはずもない。

自分のやりたいことを見つけられるようになった話は後に回す。


とりあえず、SNSを見すぎるのはやめたい。





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