障害者や寝たきりの高齢者が生きているということ






介護老人保健施設、いわゆる老人ホームや児童療養施設では誰かの助けがなければ生命を維持することすら危ぶまれる人が大勢いる。


数年前、相模原で起こった事件。
コミュニケーションが取れない利用者の方々が何人も殺された。

「生産性のない者は生きている必要がない。」

日本に身を潜ませていた軽薄な思想が、まるで大気中の塵をつたって墜ちる雷のように大きな衝撃とともに駆け巡った。



この事件は断じて肯定されるべきではないという世論に落ち着いたのはしばらく経ってからだ。
各所では被告の価値観に賛同する人間もいた。

それは、この事件によって、ある程度の大衆が障害者や寝たきりの人の生活や人生について初めて直視させられたからだと僕は思う。

自分では何も出来なくなった人が生きているという現実をある意味で否定したいという感情は、一定数の聡明な人間以外は、確実に通過する葛藤だ。






僕も数年間、答えが出ないまま先送りにし続けた。

僕にとっての答えは、自分の人生を客観視する過程でたまたま見つかったものだった。






生きることすら満足にさせてもらえない人たちは、葛藤と行動を生み出し、関わる人に影響することができる





これこそが見殺しという軽率な選択肢を取ってはならない理由なのではないかと思う。




難病の方々を取材するドキュメンタリーをよく見る。患者や家族の人生や考えを知るのが好きだ。
そうして僕は空いた時間に考えを巡らせ指を走らせることができ、人生がとても豊かに感じる。
自分の中の容量が広がっていき、温もりを持つことができるようになる感覚を覚える。




僕は僕自身が題材のような人から生きることや世の中の温もり、寂しさ、苦しみ、喜びといった紛れもない現実の矛盾する美しさを知ることができている。
そのことに気づいたとき、肩の後ろ側で少し緊張が緩んだ気がした。




きっと、かの事件のようにこの方々を世界から全て消したとき、動物的な生き方しかできない薄ら寒い醜悪が残るのだと思う。


もしかしたら、被告や僕たちは無意識の内に、自分が仮に何も出来なくなったときの不安や絶望を身勝手にも重ねていたのかもしれない。

心理学でいう投影のように。

僕の中で心のしがらみが弱くなったことは愚かにもその暗示だ。





もちろん、当事者の方々は想像を絶する苦しみや不安の中にいる。それに抗う気力も淘汰されるほどの絶望が襲うかもしれない。

けれど、僕はあなた方のおかげで少し人に優しくなれるし、誰かの幸せを願うことだってできる。






障害者や高齢者の方々は一見、何も出来なくなってしまったようで、その実は凄まじいパワーを持った表現者だった。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?