「政治と文学」再来?――特集企画に寄せて(A面:松田樹)
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(1)特集の経緯
2022年3月、「「政治と文学」再考――七〇年代の分水嶺」と題した特集企画を組んで刊行した。
「政治と文学」とは、雑誌『近代文学』に拠った荒正人や平野謙らによって敗戦直後に提起され、戦後文学の理論的背景を形作った命題である。本特集は、その「政治と文学」なる題目が、いわゆる「68年の革命」を経て、70年代以降のポスト戦後社会=大衆消費社会にいかに展開されていったのかを大西巨人、井上光晴、黒井千次、上野英信、花田清輝、五木寛之、開高健らを通じて多方向から論じたものである。
この企画は、中上健次を中心に戦後日本文学を研究する松田樹、すばるクリティーク賞からデビューした批評家の赤井浩太(白井耕平)、「内向の世代」研究者の竹永知弘が2020年1月に立ち上げ、企画の立案から運営など共同で約2年間にわたって準備してきた。
並行して、松田と赤井は2021年2月に刊行された吉永剛志『NAM総括』の編集・文献整理の仕事にやはり共同で携わっており、そこで提起されていた問題を戦後から現代に至るより広範な歴史の下で検討し直すことが本特集の目的の一つであった。
改めて確認しておくと、NAM(New Associationist Movement)とは、2000年に柄谷行人が立ち上げた「資本と国家への対抗」のための運動体を指す。後述の通り、柄谷は、戦後文学者が提起した「政治と文学」論を批判するところから文芸批評家としての出発を果たす。だが、その柄谷は冷戦体制の崩壊以降、「政治と文学」という命題に改めて言及を繰り返し、あたかも戦後文学史を乗り越えるかのようにNAMという運動体を立ち上げる。
こうした経緯を踏まえつつ、柄谷周辺の言論を一つのヒントとしながら、戦後以降の文学者と政治情況との関係性を歴史化することが『NAM総括』/「政治と文学」企画を展開してきた、この二年間の松田と赤井の共通目標であった(ちなみに、松田はそのような展望を作品分析に織り込んだ中上健次論「中上健次作品研究――「政治と文学」の終わりから「近代文学の終り」まで」をつい先頃博士論文として上梓した)。
したがって、以下の紹介文を読む際には、赤井の側から見た本企画についての紹介記事(B面)や、『NAM総括』刊行時の記事も合わせて読んでいただければ幸いである。
以下の内容は、特集の巻頭にて企画の趣意を整理した、松田樹「「政治と文学」再考――ケーススタディ・井上光晴と大西巨人」の簡単な紹介である。
(2)「政治と文学」再来?
「政治と文学」という命題は、近年、文化や芸術を読み解くキーワードとして注目を浴びている。冷戦体制も終わりを迎えた1990年代中盤に、高橋源一郎は「政治は政治、芸術は芸術だと、分けて考えるのが当たり前になった」と、両者の拮抗関係を前提とする戦後文学史の枠組みがもはや崩れ去ったことを宣言していた。対して、福嶋亮大によれば、現代の文化芸術の分野ではポリティカル・コレクトネスの潮流を背景に、政治的な問題が無視できないことが前提とされており、そこでは「「政治と文学」の再来」とも言える現象が生じているという(『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』2020年)。
このような見取り図を示すのは、実は、福嶋一人にとどまらない。他にも、杉田俊介(『戦争と虚構』2017年)や荒木優太(『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』2017年)、宇野常寛(『母性のディストピア』初出タイトルは「政治と文学の再設定」2017年)など、少し前に刊行されたいわゆる文芸批評家の著作は、やはりいずれも古びたと思われていた「政治と文学」という命題を戦後文学史から取り出すことで、現代の文化芸術を読み解く視座を提供していた。かつては、「芸術の自立」を謳っていた高橋源一郎が『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史戦後文学篇』(2018年)で、以前の自説を翻して、同時代の政治情況に対峙した戦後文学者の姿勢をあらためて評価し直していることも、そのような現代論壇の潮流の下に位置付けうるだろう。
だが、果たして「政治と文学」なる命題は、そもそもいつの段階で「分けて考えるのが当たり前」(高橋)になったのだろうか。
本特集では、とくに1960年代から70年代にかけてのポスト戦後社会=大衆消費社会の到来に焦点を当て、さまざまな世代の文学者が「政治と文学」なる命題をこの時期にどう変質させていったのかを検証した。
例えば、70年代に「政治と文学」論の限界を見る証言には、以下のようなものがある。
柄谷行人は、60年代と70年代の言説状況の差異を「文体」に見る。すなわち、江藤淳におけるカッコ書きは、文学作品に現れた登場人物を「父」と表記することで、あたかもそれを天皇や国家の隠喩として語ることを可能にしている(もしくは、「母」をその逆の自然や無規定状態として)。あるいは、吉本隆明の場合もまた、〈自立〉と書けば、詩を論じていても、それはすぐさま大学や論壇に対する抵抗を意味することが前提化されている。その修辞的な技法が可能にしているのは、単に文学作品を扱っているだけであるにもかかわらず、あたかも政治情況に相渉っているかのような、傍観者的な立場からのアンガジュマンの姿勢に他ならない。
柄谷がデビュー時に「政治と文学」という命題を疑い、むしろ非政治的で高踏な「内向の世代」と呼ばれる作家の擁護者として現れたのは、吉本や江藤には自明視されていた隠喩的な文体を選択しなかったためである。
そのことを早くから指摘していたのは、初期柄谷の政治への距離感にこそ注目した東浩紀に他ならなかった。東は、先行世代の批評家とは異なって情況に対峙しないという選択から出発したはずの柄谷が、NAMへと接近し始める時期に決別宣言とも見える文章でそのことを書く(「柄谷行人論」『ヒューモアとしての唯物論』講談社学術文庫解説、1999年)。ただし、東がデビュー時の柄谷が抱えていた困難を「ポストモダン」の条件と概括しているのに対して、柄谷自身は上記の対談で、その切断をあくまで「連合赤軍事件」に見出しているが(この辺りは、拙論でも詳しく言及した)。
一方、江藤や吉本もまた70年代以降は、文学作品を通じて政治情況を語るような旧来のスタイルが空転していることを自覚し始め、次第にそれを放棄してゆくだろう。前者は占領期研究を通じてより直接的な形で「政治」を扱うようになり、後者は消費社会の下で生み出される雑多な文化にこそ旧来の「文学」観念を超えたものを見出し始める。
とすれば、この時期に果たして何が生じたのだろうか。そして、この時期の転換を無かったことにして、「政治と文学」論を安易に戦後文学史から蘇生させることはできるのだろうか。70年代以降のポスト戦後社会=大衆消費社会の到来が日本の言説空間にある変質を生じさせていたとすれば、それは不可逆な時代の進展であったはずだからである。本特集では、「再来」や「再設定」を歌う近年の傾向に抗して、歴史的なある切断面を強調することで異議申し立てを試みた。
ちなみに、上記の柄谷の「文体」に関する発言は、対談相手の加藤典洋への牽制に他ならないだろう。加藤は江藤や吉本の影響下にあったことから、70年代には沈黙を強いられるも、80年代に『アメリカの影』で登場した書き手である。そして、同デビュー作をはじめとして、彼の批評文には「父」や「母」といった隠喩的なイメージが江藤の文章から持ち越されている。江藤や吉本自身にも大衆消費社会の下では次第に放棄されてゆく、批評文における隠喩的な文体が、加藤においては「サブカルチャー」(©︎大塚英志)として復活するのである。すなわち、文学作品に時代の動向をつかまえて情況への対峙が期待されるのではなく、もはや当初からジャンクで陳腐なものであることが前提とされた上であえてそこに政治性を読み込む行為――わかりやすく言えば、加藤にとっての村上春樹の意味――として。
ここから言えば、昨今の「政治と文学」論の復活は、同時にやはり近年の傾向でもある江藤淳や加藤典洋の再評価にも通底する問題であろう。「母」や「父」という用語を用いれば文化や芸術を現代社会の動向の下に位置付けうるというようなサブカル評論はいまもなお量産され続けており、それは「政治と文学」という枠組みを安易に蘇生させようとする態度と軌を一つにしている。
(3)70年代の分水嶺
ところが、こうした主張を繰り返していた柄谷は、冷戦体制の崩壊からNAM結成に至るまでの時期に、改めて「政治と文学」の問題を繰り返し俎上に載せ始める。大西巨人との間で行われた両者の初対談で、柄谷は70年代以降の「政治と文学」の変遷を次のように振り返る。
ここでは、自身が登場した当時を回顧しながら、70年代以降の「政治と文学」という命題の展開が位置付けなおされている。戦後派が文学作品と政治情況を対置しようとしてきたのに対して、70年代以降には文学者から情況への関与の姿勢が失われてゆく。だが、むしろそうした趨勢下で、「文学そのものが政治である」という位相を取り出すことで情況への関与を試みてきた、と柄谷は90年代中盤に自身の活動を定位している。
ところで、対談中でやや唐突にも、そうした自身の試みに並走していたのではないかと言及されるのが、大西巨人である。これはその数年前に亡くなった中上健次がそれまで柄谷にとって占めていた位置に近しいが、果たしてそこでなぜ大西巨人だったのかということは、大西の作品を含めて拙論で分析した。
そして、本記事では柄谷に寄せて記述したが、「「政治と文学」再考――七〇年代の分水嶺」と題したこの特集は、彼に限らず、多方向から70年代という時代がひとつの歴史の転換点であったことを検討しようとしたものである。
例えば、竹永知弘「「内向の世代」以前――『新日本文学』の黒井千次」では、黒井の文体分析を通じて「内向の世代」というグループの文学史上の位置に再考が促される。黒井は70年前後に登場した非政治的な作家の一群として、一般的には「内向の世代」に分類される。だが、彼はそもそも50年代に『新日本文学』周辺の労働者文学の担い手として活動を始めていた。彼の作品とその記述のスタイルの変遷には、どのような時代の変動が反映されているだろうか。
奥村華子「哄笑に耳をすませる――上野英信『地の底の笑い話』論」は、近年徐々に注目が集められている「聞き書き」という戦後文学史上のエクリチュールの形式――やはりそれを演出している作家の一人が高橋源一郎であることに注意しよう(『文芸 特集聞き書き、だからこそ』2021年1月参照)――に焦点を当てる。学生運動の高揚がピークを過ぎた70年代には、政治運動の場は炭鉱などの「辺境」(©︎井上光晴)へと次第に押しやられてゆく。そのなかで鉱夫の声を書き取る上野の活動にはどのような意味があり、先行の戦後文学者とは異なった情況への関与の可能性がいかに見出されていたのか。
加藤大生「対抗身体の場所を拓くために――花田清輝「伊藤氏家訓」への一視角」は、花田清輝と連合赤軍事件というやや異質とも思わせる取り合わせを、『室町小説集』に収められた短篇のある女性の造形に読む。田中美津の問題提起以来、連合赤軍事件は性規範に対する闘争としても捉えられてきた。そのような新左翼的な思潮の勃興に対して、花田は同時期に女性の身体をどのように描き、応答していたのか。
山田宗史「〝底なし〟の食欲――開高健『新しい天体』と消費社会」は、あたかも日本列島改造論(1972)のように日本全土を隈なく食欲で覆い尽くそうとする開高健の小説の主人公に、大衆消費社会の下で飽和してゆく欲望を捉える。開高は同時期、サルトルの有名なフレーズをもじって「衣食足りて文学は忘れられた?」と周囲の戦後派に問いかけたが、では彼自身は食という観点からこの時代をいかに表象しているのか。
そして、この時期の戦後派作家の活動に消費社会の出現に対する応答と「政治と文学」論の空転を見出す読解は、白井耕平「一九七〇年のペンキ絵――五木寛之『白夜草紙』論」に共通するものである。それに関する内容は、以下の、赤井(白井)の記事に本人から報告されることになるだろう。
以上、(1)企画の経緯と(2)拙論の部分的紹介、(3)寄稿文の簡単な概要説明を行ってきた。現代の批評的動向からはその位置付けづらさゆえに黙殺され、一方の戦後文学研究からは戦後というカテゴリーの外部として扱われることの少ない、この奇妙な断層に焦点を当てた、本特集企画「「政治と文学」再考――七〇年代の分水嶺」に多少とも興味を持ってもらえれば幸いである。
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