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『一人称単数』に関連してもう少々

 先日、読書記録に村上春樹の最新の短編集『一人称単数』を加えた。
 とりあえず読み終えた直後の印象は書き留めたが、文章的残尿感とでも言えばいいのだろうか、今ひとつ書き足りていない感じがする。

 そもそも読書記録に「この小説はオススメです」みたいなことを書く気がない時点で人目に晒すブックレビューとしての価値はゼロなのだが、とはいえあっちこっちに話が反復横跳びする感想や印象を3000字も4000字も書き連ねても迷惑なだけだ。
 だったらこんなところに書かなければ良いというお説はごもっともだし、誰かの目に触れるところに置くなら、少しは気配りしてあらすじを書くなりなんなりすれば良いのだろうが、それほどサービス精神に富んだ人間なら、僕の傲岸不遜さはいくらか薄くなって、その代わりに社会性を得ていたはずだ。世の中、なかなかうまくいかないものだ。

 僕の読書記録は読み終えたあとに印象に残ったこと、読んだことから連想したことなど、読後の残滓を頭の中からすくい上げている備忘録みたいなもの —— わざとらしく村上的に言うなら文化的酒粕製造とでもいうシロモノだから、読書記録は醸造タンクの洗浄とさして変わりがない。
 掃除の仕方が知りたい人には役に立つかもしれないけれど、ブックレビューだと思って読んでも、なんだかわからない文章なのではないか。「読後」という共通言語がないままに「未読」と「読後」が意思の疎通を図ろうとしても、そこには悲しいすれ違いが山のように生まれるだけだ。

 またもやどうでもいいことを先に長く書いてしまった。

 村上春樹は僕と同世代の読書人には数少ない同時代の作家だ。
 デビュー当時から新刊が発売されるのと同時に読み、好き勝手な感想を仲間内で喋るのは一つの娯楽だった。
 長く書き続けてくれているおかげで、「『風の歌を聴け』が発表された頃は」とか「『ハードボイルドワンダーランド』の最後の100ページを読むために山手線の中を1周半回った」とか、学生の頃を振り返る時の目印にもなっている。でも、同時代性というのは読者の過去の記憶との結びつきではないのかもしれない。
 読者個人が作家の伴走者たることではなくて、作家を含む小説世界の誕生〜成長と現実世界の進展が極めて近いところで、同時並行で等速に走っているところに生まれるもの、と言われた方が腑に落ちる。
 小説は多数の読者の感想や、小説によって読者に植え込まれた小説的な有り様(ライフスタイルとかファッション等々)によって社会に還流する。そうして起きた小さな波は有形無形で未読の人にも波及していく。
 過去の作家がブームを獲得する代わりに同時代性を得られないのは、そういう理由だからなんだろう。

 優れた文学作品であるかどうかは、読んだ人によって百者百様で、作品の感想も賛美からこき下ろしまで様々だ。まったく同じ感想や印象を抱くことの方が気持ち悪い。
 僕にとっては『一人称単数』は、長く感じてきたことや過去にあった出来事に妙に符合しているところがあって、余計に強く印象に残った。
 収録された8編の短編小説は、すでに長く記憶に残りそうな予感がある。
 日頃から意識しているわけでもなく、ただ唐突に「そういえばあの小説は……」と思い出す小説が僕にはいくつかあって、この短編集が新たに加わったような感触があるのだ。
 そういう作家が一人でもいる人は幸福だと思う(「私は数少ないファンの一人」というのでは成り立たないのが辛いところだが)。
 村上春樹である必要はまったくないのだが、いま「同時代の作家」と言ったら誰になるんだろうかと、ふと考えてしまった。

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